下稲葉耕吉
下稲葉 耕吉(下稲葉 耕𠮷、しもいなば こうきち、1926年〈大正15年〉4月29日 - 2014年〈平成26年〉2月17日)は、日本の警察官僚、政治家。法務大臣(第64代)、警視総監(第73代)、参議院議員(2期、自由民主党)。位階は従三位。
しもいなば こうきち | |
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![]() 内閣広報室より公表された肖像 (1997年 撮影) | |
生年月日 | 1926年4月29日 |
出生地 | |
没年月日 | 2014年2月17日(87歳没) |
死没地 | (東京警察病院) |
出身校 | 東京大学法学部政治学科卒業 |
前職 | 警察官僚 警視総監 |
所属政党 | 自由民主党(三塚派→加藤G→無派閥) |
称号 | 従三位![]() 法学士(東京大学・1948年) |
内閣 | 第2次橋本改造内閣 |
在任期間 | 1997年9月11日 - 1998年7月30日 |
選挙区 | 比例区 |
当選回数 | 2回 |
在任期間 | 1986年7月15日 - 1998年7月25日 |
来歴・人物
鹿児島県鹿児島市出身。同市山之口町生まれ。鹿児島県立第一鹿児島中学校 (旧制)、第七高等学校造士館 (旧制)を経て1948年東京大学法学部政治学科(旧制)卒業。
内務省に入省後、警察畑を進み、徳島県警察本部長、内閣総理大臣秘書官、警視庁警備部長 、警察庁長官官房長、大阪府警察本部長、内閣調査室長、警察庁次長、警視総監を歴任した。特に警視庁警備部長時代は70年安保闘争の時期にあたり、東大安田講堂事件などの指揮を執ったことで知られる。
1986年には参議院議員に転じ、文教委員長、議院運営委員長を歴任。1997年の第2次橋本改造内閣で法務大臣を務めた。約10ヶ月の法相在任中、3人の死刑囚の死刑執行を命令した。1998年の参議院選挙には立候補せず、政界を引退した。同年、秋の叙勲で勲一等瑞宝章受章。
晩年は、社団法人日本犬保存会の会長を務めた。
警視総監時に1度、参議院議員時にも1度、家に泥棒に入られている(総監の家には臨時のポリスボックスが設置される)。
ウルトラマンが好きで「正義を行えばただ単純に賞賛されるのはいいなぁ」とよく語っていた。
2014年2月17日午後1時31分、敗血症のため東京都中野区の東京警察病院で死去、87歳没。死没日をもって従三位に叙される。
年譜
脚注
- ^ a b 『官報』号外第227号8頁 平成10年11月4日号
- ^ 南日本新聞社 編『郷土人系 上』春苑堂書店、1969年、188頁。
- ^ 朝日新聞社 編『新人国記 9』朝日新聞社、1985年10月10日、80頁。ISBN 4-02-255029-5。
- ^ 秦郁彦 編『日本近現代人物履歴事典』(東京大学出版会、2002年5月)「下稲葉耕吉」
- ^ 「98年秋の叙勲 勲三等以上と在外邦人、及び外国人の受章者一覧」『読売新聞』1998年11月3日朝刊
- ^ “元法相・警視総監、下稲葉耕吉氏死去”. 産経新聞. (2014年2月21日). オリジナルの2014年2月21日時点におけるアーカイブ。2023年1月2日閲覧。
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:|archive-date=
と|archive-url=
の日付が異なります。(もしかして:2014年2月22日) (説明)⚠ - ^ 『官報』第6257号7頁 平成3月27日号
公職 | ||
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先代 松浦功 | ![]() 第64代:1997年 - 1998年 | 次代 中村正三郎 |
議会 | ||
先代 志苫裕 | ![]() 1996年 - 1997年 | 次代 中曽根弘文 |
先代 柳川覺治 | ![]() 1990年 - 1991年 | 次代 大木浩 |
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