コミッショナー
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コミッショナー(commissioner)とは、プロスポーツの統括組織における最高の権限を有する責任者の称号。
なお、英語のコミッショナー(Commissioner)には、以下の意味もある。
- 欧米における植民地や属国での業務を行う弁務官(Commissioner)または高等弁務官(high commissioner)。
- 政府機関の長官。例えば日本政府における外局の長官は、commissionerと英訳される。(例:文化庁長官 Commissioner for Cultural Affairs)
- 政府機関の調査機関・諮問機関である委員会(commission)の委員。(例:公正取引委員 Commissioner of the Fair Trade Commission)
日本語でプロスポーツの統括組織における最高責任者にこれらの訳は当てられず、「コミッショナー」の語は外来語として、もっぱら野球やボクシング、バスケットボールなどのプロスポーツにおいて、選手権やリーグなどの最高運営責任者の意に用いられるため、本項においてもこれに従って解説する。
統一コミッショナー
フィリピンでは大統領府直轄として国内のあらゆるプロスポーツを管轄する競技娯楽委員会(GAP)が組織されており、チェアマン1人とコミッショナー2人の体制で運営されている。
1968年に設立されたプロスポーツ団体の連合体である権利能力なき社団だった日本プロスポーツ会議(初代議長は自民党の派閥・新政同志会創立者で第2次佐藤内閣_(第1次改造)運輸相在職中の後の日本国首相・自民党総裁中曽根康弘)を前身とする。
1990年12月、文部省(中央省庁再編により2001年1月6日以降は文部科学省)により財団法人として認可され日本プロスポーツ協会に改称、初代会長に当時衆議院議長だった櫻内義雄が就任(中曽根と同じく民主党新人として1947年衆院選で初出馬し初当選同期で同じく国民民主党→改進党→日本民主党経て同じく1955年11月15日保守合同・自民党立党大会や1956年春秋会旗揚げや1966年新政同志会旗揚げ参加し、新政同志会が1978年名称変更・政策科学研究所の雇われ会長も務めた中曽根の盟友中の盟友)。
各プロスポーツ団体を統括し、会長は(前身団体の初代議長・中曽根同様に)統一コミッショナー的な存在といえよう。
桜内が退任後の歴代会長
②柳川覚治(2002年1月) ③森喜朗(2002年7月~2009年) ④島村宜伸(2010年6月~) ⑤麻生太郎
(2009年に森が退任後の僅かな期間は小池唯夫が会長代行を務めた)
- 上記四名は、自民党以外の党籍を有した経験皆無な日本の国会議員経験者。1994年6月29日の首相指名選挙では桜内同様に最初の最大野党時期の自民党の日本社会党委員長村山富市支持方針に従った(中曽根が棄権した一回目も、中曽根が後述の対抗馬支持した決選投票も)。しかし中曽根自身は反発し、旧連立与党の最高実力者新生党代表幹事小沢一郎が担ぎ出した(同日時点では自民党所属国会議員で翌日離党して高志会旗揚げし代表・7月27日自由改革連合結成し代表・12月10日新進党結党し初代党首)海部俊樹に票を投じることを表明するが、この「中曽根の海部支持」は自民党・社会党内部で反発を買い逆効果だったとされる。特に、首班指名を前に殆ど分裂状態に陥っていた社会党では、「中曽根が推す候補に入れるわけにはいかない」というムードが広がり、結果的に造反議員の数を減らした。なお、自民党内の造反者の多くは処分されたが、中曽根は貢献度を重視して党最高顧問を自発的に辞任により不処分であった。自社さ連立政権誕生や村山内閣発足で自民党は政権奪還果たしたが翌1995年参院選・比例区で海部党首及び小沢幹事長率いる(都道府県議や自治体議員や95年非改選・参院議員で構成の兄弟政党公明及び支持母体創価学会や友好関係のその他の政治団体民社協会及び支持母体自動車総連・電力総連・ゼンセン同盟が全面的にバックアップ)最大野党・新進党に比較第一党の座を奪われ中曽根派現職・柳川は落選し新人小山孝雄は初当選で2001年小山が同任期満了数か月前にKSD事件で議員辞職し柳川は繰り上げ当選し同年参院選不出馬で勇退。
- 柳川と島村は、桜内と同様に1999年3月18日前述の中曽根名誉会長率いる(山崎拓率いる近未来政治研究会と分裂直後の)政策科学研究所が発展的解消時点在籍の中曽根最高顧問率いる志帥会旗揚げ参加のメンバー
- 柳川は国政選挙初出馬以前に文部省体育局長として1980年モスクワオリンピックのボイコットで各競技団体に日本政府の見解を伝えて説得工作して50代半ばで官僚を辞して1983年参院選・厳正拘束名簿式の比例区で総裁派閥・政策科学研究所の新人候補として初出馬初当選し1986年第3次中曽根内閣沖縄開発政務次官。島村は中曽根の秘書経験し1995年村山内閣_(改造)で初入閣し文部大臣務め翌1996年衆院選で新設の東京16区で日本新党出身の新進党新人の後の日本プロテニス協会理事長佐藤直子に圧勝して再選。
- 森は中曽根の群馬県第3区_(中選挙区)の対立候補・福田赳夫の側近で福田が創始者の清和研の幹部候補生だったが、1983年第2次中曽根内閣で初入閣し文部大臣任命された。
- 麻生自身もクレー射撃・モントリオールオリンピック日本代表選手や文部政務次官や自民党文教部会長だった。中曽根没後に中曽根康弘世界平和研究所の会長務め、自身より7歳上の島村とは学習院大法学部政治学科18歳入学の先輩後輩で親交深く島村が日本会議国会議員懇談会初代会長退任に伴い後任を託され、自身を首班とする麻生内閣時代には自民党特別補佐を任命する等、別の派閥に属してきたが極めて関係が深い。(麻生は島村の亡父で二日会旗揚げメンバー島村一郎が同消滅に伴い移籍した宏池会に自身も加入し同新人候補として1979年初出馬初当選。19年後に1998年7月国会議員票と都道府県連票のみの自民党総裁選で当時最大派閥平成研究会離脱した梶山静六を現職閣僚たる選対本部長・島村をはじめとする政策科学研究所内の反山崎G共々全面的にバックアップし選対責任者務め、同年暮れに集団離脱して大勇会旗揚げした。前述の政策科学研究所の反山崎Gには中曽根・桜内・柳川・小山も含まれる)
野球
プロ野球においては、最高責任者をコミッショナーと呼ぶ場合が多い。
MLBにおいて1919年に起こったブラックソックス事件をきっかけに、判事のケネソー・マウンテン・ランディスを、絶対的裁量権を有する「コミッショナー」として迎えいれたのが始まりとされている。
日本プロ野球(NPB)でも1951年にコミッショナー制度が成立した。
また、独立リーグの四国アイランドリーグ(現四国アイランドリーグplus)では、創設者であり株式会社IBLJ初代社長でもある石毛宏典が2007年12月までコミッショナーを務めていたが、石毛の退任後はコミッショナーを置いていない。
ボクシング
プロボクシングの場合、最古の世界王座認定団体であるWBAが定めた「1国1コミッション」の大原則の下、それぞれの国で統括され、コミッショナーは国内でのすべての試合を指揮・監督する。ただしWBA発祥国であるアメリカ合衆国のみ各州ごとにコミッション(1州1コミッション)が存在する(これらのコミッションの扱いを巡りWBCがWBAから離反するきっかけとなる)。また、1990年代に入ると、WBAの弱体化もありメキシコやインドネシア、韓国など大原則が崩れてコミッションが乱立する国も現れている。
日本でも1952年に日本ボクシングコミッション(JBC)が設立され、コミッションルール第1部第1章「コミッショナーの権能」にて明記されている。
「1国1コミッション」の原則に反する形でJBCに対抗し存立したIBF日本(IBF・JAPAN)の初代コミッショナーに柳川次郎が就任し数年間務め、その後は池田ボクシングジムオーナーでもある池田久が務めた。
JBCが女子ボクシング認可以前に存立した日本女子ボクシング協会(JWBC)では自民党代議士高市早苗がコミッショナーとしてJWBCが発展的に解消するまで務めた。
バスケットボール
プロバスケットボールでも、最高責任者をコミッショナーと呼ぶ場合が多く、NBAでは2014年からアダム・シルバーが務めている。当初は「会長」だったが、1967年より「コミッショナー」となった。
日本でもプロリーグ発足の先頭に立ち、株式会社日本プロバスケットボールリーグの初代社長も務めた河内敏光が初代bjリーグコミッショナーに就任している。なお、bjリーグの後身として2016年にNBLと統合により発足されたB.LEAGUEの最高責任者はコミッショナーではなく「チェアマン」と表現している。
プロレス
プロレス界では、日本プロレスの時代は政治家が務める事が多かった。初代の大野伴睦は元衆議院議長・自由民主党副総裁であり、第二代川島正次郎・第三代椎名悦三郎も自民党の衆議院議員である(なぜか自民党副総裁に縁があり、大野・川島・椎名と後の二階堂は皆自民党副総裁の経験者である)。なお、日本プロレスリングコミッション設立前は、日本プロレス協会会長の酒井忠正が事実上のコミッショナーとして職責を担ったが、酒井も旧貴族院の伯爵議員であった。日本プロレス時代のコミッショナーは厳密には「日本プロレス界全体の」コミッショナーを称していた。東京プロレスや国際プロレスからも団体発足時に認可申請があったが、日本プロレスの工作によりこれら団体の認可は実現せず、日本プロレスのみを認可団体として推移するうちに日本プロレスが崩壊、コミッショナーも活動を停止した。法律的には、日本国内において、プロレス興行を行うにあたり、認可は必要とされていない。
1979年2月、新日本プロレスは国際プロレスとともに二階堂進をコミッショナーとして推戴することを発表したが、これは当時存在した三団体の一つである全日本プロレスに全く相談なしに行われたもので、全日本はこれを認めなかったばかりか全日本と新日本の関係がますます悪化することになった。全日本は創立直後にタイトルやリーグ戦の認定・管理機関としてPWF (Pacific Wrestling Federation) を設立しており、プロレス夢のオールスター戦に際してジャイアント馬場・アントニオ猪木・二階堂進で写った写真には、二階堂のカウンターパートとしてPWF会長のロード・ブレアースが一緒に写っている。なお、日本プロレス・新日本プロレスに擁立された各コミッショナーは、女子プロレスは管轄していない(「全日本女子プロレスリング協会」が管轄)。新日本・国際のコミッショナーはその後自然消滅したが、PWFはいまだ存続している。
なお当時、プロレスの試合に「ブック」(シナリオ)が存在することは、当のプロレス会社重役ですら限られた者にしか伝えていないほどだったので、コミッショナーも関知していなかった可能性が大きい。やがてブックの存在が公然の秘密になるに従い、有力政治家がプロレス運営に関与することはなくなっていく。
近年では2002年旗揚げのKAIENTAI DOJOなどにコミッショナーが存在、タイトル等の管理委員など色々な役割を兼務している。プロレス団体の連合組織としてグローバル・レスリング連盟が発足したが、初代会長がプロレスリング・ノア社長の三沢光晴であり、業界団体にとどまらずコミッショナー的な役割を果たすにはまだまだ課題が多く(ただ、それまでの日本プロレス界には業界団体すらなかったのだが)、2009年の三沢の急死後の後継人事も未定である。
かつてのアメリカのプロレス界では、NWAのような各地の団体の連合組織が存在しており、その会長が加盟団体にとっていわばコミッショナーであった。NWAの主な会長には、サム・マソニック、フリッツ・フォン・エリック、ボブ・ガイゲル、ジム・クロケット・ジュニアなどがいる。
歴代コミッショナー
日本プロレス時代
- 日本プロレス協会会長:酒井忠正(元伯爵・貴族院議員、横綱審議委員会委員長)-コミッショナー格
日本プロレスリングコミッション
- 初代:大野伴睦(衆議院議員・元衆議院議長、当時自民党副総裁)
- 第二代:川島正次郎(衆議院議員、後の自民党副総裁)
- 第三代:椎名悦三郎(衆議院議員・元外相、後の自民党副総裁)
新日本プロレス・国際プロレス
全日本女子プロレス
KAIENTAI DOJO
- 中村吉晴
- 上原洋
- 矢郷良明
- 味方冬樹
- 296
- マイク佐藤
リアルジャパンプロレス
- 榛葉賀津也(参議院議員)
総合格闘技
日本の総合格闘技団体である「修斗」では1997年に日本修斗コミッションが設立され、浦田昇が二代目会長との兼任で初代コミッショナーに就任して以来2014年に死去するまで在職していた。2代目は佐藤信義。
2008年に発足された総合格闘技「SRC(戦極)」を統括する日本総合格闘技協会にも、コミッション委員会が設置されており、初代コミッショナーには井上幸彦元警視総監が就任した。
世界最大の総合格闘技団体である「UFC」でも過去にコミッショナーを設置していた時期があり、当時のベテラン選手ロン・ヴァン・クリフも務めたことがあった。しかし、運営母体がSEGからズッファに変わってからはコミッショナーは廃止された。
アメリカの州によっては、コミッションの認可が無くては、格闘技の興行ができない。例えば、ネバダ州では、ネバダ州アスレチック・コミッションの認可が必要である。
ボーイスカウト
ボーイスカウトにおけるコミッショナーとは、スポーツ界における最高権威者ではなく、全国組織・地方組織において、特定分野を担任して指導にあたる役員のことである(ただしその任務は各国によって違いがある)。
スカウト運動の創生期より、創始者ロバート・ベーデン=パウエル卿が、自らの代理者として活動方法・基準などの監督や相談に応じる「巡回監督(Traveling Inspector)」を任命したのがコミッショナー制度の始まりで、その後のスカウト運動の広がりを受け、1910年に「組織コミッショナー(Organizing Commissioner)」が正式に誕生した。
日本のスカウト運動におけるコミッショナーは、各組織におけるスカウト活動(教育)が、世界スカウト機構、日本連盟、都道府県連盟の方針と規定に従って展開されるように指導・助言を行い、教育・指導面の推進者・責任者としての任務を担っている。
脚注
- ^ ミスター高橋によると、新日本プロレス草創からの大幹部であり運営に深くかかわった新間寿にすら伝えられていなかったという。(ミスター高橋 "流血の魔術書・第2幕" 第4章 "団体幹部に対しても「ケッフェイ」",pp. 145-146, 講談社,2010年)
関連項目
- マッチコミッショナー
- チェアマン
- 立会人
- コミッション - コミッショナーはコミッションの代表者である。
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