高崎白衣大観音
高崎白衣大観音(たかさきびゃくえだいかんのん、たかさきびゃくいだいかんのん)は、群馬県高崎市の岩野谷丘陵(通称観音山丘陵)にある大観音(白衣観音)像である。



大観音
概要
観音山の山頂、標高212mの地点(高野山真言宗慈眼院の境内)にあり、最上階(観音像の肩部分)からは高崎市街地や群馬県の主な山々、さらには八ヶ岳等まで一望できる。通称「高崎観音(たかさきかんのん)」。高崎市民は「観音様」、「白衣観音」と呼んでいる。市民や県民は、白衣(びゃくい)観音と発音し、白衣(びゃくえ)の呼び名を使う人は少ない。群馬県の郷土かるた「上毛かるた」では「白衣観音」に「びゃくいかんのん」と振り仮名があるので、その影響が少なくないと思われる。
1936年(昭和11年)、実業家で井上工業初代社長の井上保三郎が建立した鉄筋コンクリート製の観音像で、高さ41.8メートル、重さは5,985トン。総工費は16万円。建立当時は世界最大の観音像だった。高崎に駐屯していた大日本帝国陸軍歩兵第15連隊の戦没者を慰霊するとともに、観光地とすることが目的だった。現在は年5万 - 6万人程度が拝観する。内部に入ることもできる。146段の階段が9層を結んでおり、20体の仏像が安置されている。原型製作は伊勢崎市出身の鋳金工芸作家・森村酉三(日展・無鑑査)によるもので、黒川竜玉が施工の指揮をとった。森村酉三は東京の自宅を訪れて原型製作を依頼した井上の熱意に打たれ、無料でその製作にあたることを約束したという。なお森村とは別に清水多嘉示が製作した観音像の原型も現存しており、これは保三郎の長男・房一郎がフランス留学時代の繋がりから清水に依頼したものとみられている。
歴史
建立構想開始から建立まで
高崎白衣大観音建立の構想および計画は、1932年(昭和7年)から開始された。同観音の台座に刻まれた碑文では、井上保三郎が1934年(昭和9年)11月の陸軍特別大演習の際に昭和天皇に単独拝謁する機会を得たことへの感激が建立の直接の契機とされているが、保三郎はそれ以前から観音山に大きな物を建てる構想を抱いていた。高崎には当時から多くの鉄道路線が乗り入れていたため、観音山の上に大きな物を建てれば、高崎を通過する旅客の目を引くと保三郎は考えた。東京帝国大学農学部原熙教授に相談すると、原は五重の塔か三重の塔がいいだろうと回答したが、保三郎はその後、普段信仰してきた観音の像を建てることに決めたという。
観音山に大観音が建つと世間で噂されるようになると、1反30円でも買い手がなかった周辺の山林の価格が高騰し、100円でも売り手がない状態となった。取得予定地の中心部分では地権者が土地を手放すのを渋っていたが、保三郎の根気強い交渉の末、保三郎が創立した会社であり当時業績が順調であった高崎板紙株式会社の株式と交換するという条件で、ようやく取得が成った。
1934年(昭和9年)12月には工事の実施計画が開始され、1935年(昭和10年)3月には建設工事が開始した。建設工事にあたり、資材運搬用の車馬が通れるよう周辺の山道が拡幅された。1935年(昭和10年)の夏には本体工事が始まった。本体の建立には、農家で使う背負い籠を逆さにした形からヒントを得た「竹籠工法」という独創的な技法が用いられた。
建設工事は1936年(昭和11年)10月に完了した。10月20日には、真言宗総本山高野山管長高岡隆心大僧正以下100余人の僧侶により開眼の式典が行われた。
建立から終戦まで
高崎白衣大観音完成後、井上保三郎は、観音山に外苑と大遊園地を造るべく、現在の観音山公園(総合公園)の場所に15,000坪の土地を買収し、公園造成に着手した。しかし、造成半ばの1938年(昭和13年)11月に保三郎が死去したため計画は中止となった。
1938年(昭和13年)、保三郎は死去するまでの間に高崎白衣大観音とこの15,000坪の土地をとともに高崎市に寄付している。保三郎は像を護持する寺院の勧請を願っていたが、生前に寺院が勧請されることはなかった。
高崎白衣大観音の開眼法要の際に高岡隆心の随行長を務めた橋爪良全は、井上の依頼を受けて観音像を護持する寺院を探すこととなった。高野山上の複数の寺々や九度山の勝利寺など、あるところまでは交渉が進んでも最後の段階で決裂し、寺院探しはうまく進捗しなかった。最終的に、高野山高室院住職斎藤興隆の好意と多くの関係者の努力によって、1940年(昭和15年)には慈眼院の移転が決定し、高崎白衣大観音は慈眼院に寄付された。1941年(昭和16年)には、高野山から本尊聖観音菩薩が勧請されて入仏法要が行われ、大観音像を護持する寺院として慈眼院の移転が完了した。
1943年(昭和18年)から1945年(昭和20年)にかけては、慈眼院および高崎白衣大観音への参拝者はほとんどなかった。戦争末期には、参道商店街の店などに兵士が宿泊して付近に防空壕を掘ったり、観音像の内部が軍の非常食糧の貯蔵庫とされたりと、戦争に翻弄された。
昭和後期
1952年(昭和27年)4月1日から5月20日までの50日間、高崎白衣大観音を含む周辺地域一体で、「新日本高崎こども博覧会」が開催された。この博覧会を機に、観音山の環境整備が進み、参拝者が徐々に増加し始めた。
1958年(昭和33年)には、大観音像の白毫が落雷により破壊されるという事件が発生したが、1966年(昭和41年)には再設置された。
1966年(昭和41年)、高崎白衣大観音は建立30周年を迎えた。これを記念し、大覚寺門跡草繋全宜を迎えて記念法要が行われた。これにあわせて、和泉犬鳴山主東條進を先達とする犬鳴修験の行者によって壮大な柴灯護摩が行われた。この行事は数年後に「観音山火まつり・柴灯護摩」となり、1996年(平成8年)まで行われた。
1976年(昭和51年)には、建立40周年を記念し、参拝者に甘酒をふるまう「甘酒千人供養」が始まっており、これは現在まで続けられている。
1985年(昭和60年)、建立50周年に先立って、高崎白衣大観音の第一回大修理が実施された。櫓を組みクレーン車を使っての大がかりな工事であった。1986年(昭和61年)には、大観音建立50周年を記念して、慈眼院千体観音堂(新本堂)が完成した。
平成以降
1990年代には、高崎市が観音山公園(都市計画公園)を対象として「森林プロムナード事業」を実施しており、大観音像の周辺環境は整備されたが、計画だけに終わった事業も少なくない。この頃、参道商店街で結成される観音山商業協同組合(観音山商業組合、観音山協同組合とも)は、長谷川元吉理事長を中心として参道のイメージアップに取り組んだ。この一環として、参道の石畳(高崎市が1994年から1997年にかけて整備)には高崎白衣大観音の足跡が彫られた。
1995年(平成7年)の夏、大観音像の一部に大量の剥離があり、根本的な大修理を施すことになった。翌1996年(平成8年)春まで修理は行われ、4月に修復完成法要が行われた。
1997年(平成9年)には、「観音山火まつり・柴灯護摩」の流れを受け継いだ「万灯会」が初めて開催され、現在まで続いている。
高崎白衣大観音は、1998年(平成10年)1月には「たかさき都市景観賞」を受賞し、2000年(平成12年)10月には国の登録有形文化財に登録された。
2008年(平成20年)には慈眼院で奉納結婚式が始まり、2011年(平成23年)には赤い糸祈願祭が初めて開催されるなど、近年は縁結びのスポットとしても注目されている。
交通アクセス
高崎駅西口から高崎市内循環バス「ぐるりん」観音山線(農二・染料植物園コースまたは片岡・観音山コース)に乗車、「白衣観音前」停留所下車。所要約25分。
画像
- 正面
- 側面
- 背面
- 頭部
- 慈眼院
- 赤い糸祈願祭開催時の様子
その他
- 森村酉三が製作した観音像の原型をアトリエから井上工業東京支店まで自転車で運んだのが、当時井上工業に在籍していた若かりし頃の田中角栄であると語られることがある。この逸話は田中自身の口から語られたものだが、井上工業に長く勤務し『高崎白衣観音のしおり』を著した横田忠一郎は当時のことを覚えていないとしている。1934年3月27日に上京したばかりで、井上工業で勤務して日の浅い田中が、その年の5月に完成した白衣観音の原型を運ぶという会社創業者発案事業における重要な任務を仰せつかるかという点についても、森村酉三研究者の手島仁から疑問が呈されている。
- 建設工事が行われていた当時、高崎の少林山達磨寺に滞在していたドイツの建築家・ブルーノ・タウトは自身の日記において「紛れもないいかものだ。図体こそ大きいが、芸術的には極めて弱い。」(1936年9月10日)と酷評している。作家・村松梢風も『文藝春秋』1950年4月号「大船観音の問題」中で大船観音を批判しつつ「先年高崎市の郊外山上に立つてゐる矢張りコンクリート製の醜怪極まる観音像を数丁離れた所から望見して唖然となり、高崎の人人に対して同情したり、其の無神経さに呆れた事があった」と書いており、高崎市民の反発を招いた。
- 高崎観音を中心として、遊園地「カッパピア」などが整備された。「カッパピア」は2003年に閉園し、跡地は観音山公園となっている。
- 近隣に染料植物園や洞窟観音などがあり、自然歩道が整備されている。
- 1962年に公開された映画『キングコング対ゴジラ』では、ゴジラが高崎観音と対峙するシーンが撮影されているが、本編ではカットされた[要出典]。
- 2011年より毎年バレンタインデーからホワイトデーまでの1カ月間、地元のNPO法人たかさきネットワークのよって恋愛成就を祈る「赤い糸祈願祭」が行われている。高崎観音には「カップルで参拝すると別れる」という都市伝説があったため、この風評の払拭とまちの活性化のために運命の赤い糸の伝説にちなんで開催されている。期間中は観音像の小指から約30mの赤い糸が垂らされ、糸の端を自分の小指に結んで祈願を行う。2022年からはLEDを内蔵したロープが使用されている。
- 現在の慈眼院の場所は、高崎観音の建立当初から慈眼院の移築に至るまで、井上保三郎の友人の営む土産・休憩所が設置されていた。慈眼院の移築に伴い、参道を下った場所に移動して営業を続けている。
脚注
- ^ “高崎白衣大観音”. 高崎市. 2013年6月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年12月27日閲覧。
- ^ “地理院地図 / GSI Maps | 国土地理院”. maps.gsi.go.jp. 2025年9月30日閲覧。
- ^ a b 田島武夫 1973.
- ^ “NO.149 上毛かるた 「ひ」の札(2014年9月号)|るっく&WALK”. コープぐんま. 2023年12月27日閲覧。
- ^ a b c d e f g 石原征明; 飯野信義『図説・高崎の歴史』あかぎ出版〈群馬県の歴史シリーズ〉、1988年6月10日、184-185頁。doi:10.11501/13229225。(
要登録)
- ^ “御朱印求め若者集う(ぐるっと首都圏)”. 日本経済新聞 (2017年10月20日). 2022年6月29日閲覧。
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- ^ 群馬県立近代美術館 2019, pp. 68–70.
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- ^ a b 『高崎白衣大観音のしおり』あさを社、1984年、31頁。
- ^ a b 『高崎白衣大観音のしおり』あさを社、1984年、29-30頁。
- ^ 『高崎白衣大観音』井上工業株式会社、1979年、7-8頁。
- ^ a b 『新編高崎市史通史編4』高崎市、2004年、609頁。
- ^ a b 『新編高崎市史通史編4』高崎市、2004年、610頁。
- ^ 『高崎白衣大観音のしおり』あさを社、1984年、29頁。
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- ^ 『慈眼院小史』あさを社、2001年、28頁。
- ^ a b 『慈眼院小史』あさを社、2001年、29頁。
- ^ 『新編高崎市史資料編10』高崎市、1998年、856-857頁。
- ^ 『慈眼院小史』あさを社、2001年、34頁。
- ^ 『慈眼院小史』あさを社、2001年、41頁。
- ^ 『慈眼院小史』あさを社、2001年、41頁。
- ^ 高崎白衣観音参道商店街「観音屋」への聞き取り調査(2025年7月12日)
- ^ 「観音さま縁起 戦時中は食糧貯蔵庫」『群馬サンケイ新聞』1977年5月11日。
- ^ 『新編高崎市史通史編4』高崎市、2004年、1014頁。
- ^ 『慈眼院小史』あさを社、2001年、43頁。
- ^ 「白衣観音さま、お化粧 八年ぶりに“びゃくごう”」『毎日新聞群馬版』1966年7月1日。
- ^ 『慈眼院小史』あさを社、2001年、46頁。
- ^ “行事のご案内”. 高野山真言宗高崎白衣大観音 慈眼院. 2025年10月2日閲覧。
- ^ 『上州路No.150』あさを社、1986年、22頁。
- ^ a b 『慈眼院小史』あさを社、2001年、53頁。
- ^ 『観音山森林プロムナード整備基本構想策定報告書』高崎市商工部商業観光課、1992年。
- ^ 「白衣観音に客呼び戻せ 高崎市観音山商業協同組合 参道イメージアップ作戦」『上毛新聞』1991年12月15日。
- ^ 「谷を渡る90メートルのつり橋 観光地再生の目玉に」『上毛新聞』1994年3月18日。
- ^ 「ちょっと考楽知 白衣観音は市の象徴 高崎観音山」『上毛新聞』1999年3月29日。
- ^ 「観音さまの足跡? 参道に建設計画 7月完成目指す」『上毛新聞』1995年5月5日。
- ^ 『慈眼院小史』あさを社、2001年、65頁。
- ^ a b c 「高崎のシンボル白衣大観音建立80周年 県民へ慈悲のまなざし」『上毛新聞』2016年10月19日。
- ^ “白衣大観音 建立80年”. 高崎新聞. 2023年10月10日閲覧。
- ^ a b c 群馬県立近代美術館 2019, pp. 14–15.
- ^ 手島 2014, pp. 9–11.
- ^ 手島 2014, pp. 112–115.
- ^ “カッパピア跡地の公園整備で新方針”. 高崎のニュースサイト 高崎新聞 (2013年8月15日). 2023年12月27日閲覧。
- ^ “観音山公園”. 高崎市. 2023年12月27日閲覧。
- ^ “観音山イラストマップ” (PDF). 2023年12月27日閲覧。
- ^ “高崎白衣大観音に赤い糸/縁結びの新名所に”. 高崎新聞. (2011年2月14日)2022年3月15日閲覧。
- ^ “高崎白衣大観音で恋愛成就「赤い糸」大作戦-別れちゃう都市伝説払拭へ”. 高崎前橋経済新聞. (2015年2月16日)2022年3月15日閲覧。
- ^ “観音様に縁頼み! 高崎・慈眼院で赤い糸祈願祭始まる”. 上毛新聞. (2022年2月15日)2022年3月15日閲覧。
- ^ “観音様の恩恵を伝える全力のおもてなし”. 高崎新聞. 2022年6月29日閲覧。
参考文献
- 田島武夫 著、高崎市役所秘書課 編『高崎の名所と伝説』高崎中央ライオンズクラブ、1973年、2-3頁。 NCID BA80162492。
- 手島仁『鋳金工芸家・森村酉三とその時代』みやま文庫、2014年1月31日。
- 群馬県立近代美術館 編『没後70年 森村酉三とその時代展』群馬県立近代美術館、2019年9月20日。
関連項目
- 巨大仏
- 上毛かるた(「ひ」の札)
- 仙台大観音 - 同じく地元の実業家が建立した観音像。
外部リンク
- 高野山真言宗・高崎白衣大観音 慈眼院
- 高崎白衣大観音(観光情報)|高崎市
- 文化遺産データベース 高崎白衣大観音像
- 国指定文化財等データベース 高崎白衣大観音像
- 「高崎白衣大観音についての資料がないか。できれば1冊にまとまっているものがいい。」(高崎市立中央図書館) - レファレンス協同データベース
座標: 北緯36度18分39.4秒 東経138度58分49.9秒 / 北緯36.310944度 東経138.980528度
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