徳大寺実堅

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凡例
徳大寺 実堅 
德大寺 實堅
時代 江戸時代後期
生誕 寛政2年5月23日(1790年7月5日)
死没 安政5年11月11日(1858年12月15日
別名 後正桂院
官位 従一位、右近衛大将、内大臣
主君 光格天皇 → 仁孝天皇 → 孝明天皇
氏族 鷹司家→徳大寺家
父母 父:鷹司輔平、母:家女房(山形氏)
養父:徳大寺公迪
兄弟 鷹司政煕、徳大寺実堅、隆範、高演、覚尊、円祥、達子、富子、誠子、致子
醍醐信子(醍醐輝久の娘)
四辻公績、中院通富、定君(西園寺師季室)、養子:公純
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徳大寺 実堅(とくだいじ さねみ、旧字体: 德大寺 實堅)は、江戸時代後期の公卿。

経歴

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寛政2年5月23日、鷹司輔平の末子として誕生。母は山形氏(家女房)。

享和元年(1801年)に侍従となり、以後順調に出世を重ねる。仁孝天皇の信任が厚く、天皇より学問所(後の学習院)設置の意向を受けると、武家伝奏として江戸幕府と交渉した。

嘉永元年(1848年)に内大臣兼右近衛大将に任じられ、翌年辞任すると従一位を授けられた。

国学者としても知られる香川景樹は実堅に仕えていたことがあり、実堅は景樹から親しく和歌を学んだと言われている。

家族・親族

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  • 父:鷹司輔平 - 閑院宮直仁親王の第四王子
  • 母:山形氏
  • 養父:徳大寺公迪
  • 兄 : 鷹司政煕
  • 妻:醍醐信子 - 醍醐輝久の娘
  • 養子
    • 徳大寺公純 - 鷹司輔煕の密子、表向きは鷹司政通の子。

系譜

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東山天皇の男系三世子孫である。東山天皇の孫(閑院宮直仁親王の子)で鷹司家を継いだ鷹司輔平の子。
詳細は皇別摂家#系図も参照のこと。

官歴

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  • 享和2年(1802年)- 従五位下
  • 享和2年(1802年)- 従五位上
  • 享和2年(1802年)- 侍従
  • 享和3年(1803年)- 正五位下
  • 享和3年(1803年)- 右近衛権少将
  • 享和4年、文化元年(1804年)- 従四位下
  • 享和4年、文化元年(1804年)- 従四位上
  • 享和4年、文化元年(1804年)- 近衛権中将
  • 文化2年(1805年)- 正四位下
  • 文化3年(1806年)- 従三位
  • 文化3年(1806年)- 踏歌外弁
  • 文化4年(1807年)- 正三位
  • 文化10年(1813年)- 従二位
  • 文化11年(1814年)- 権中納言
  • 文化12年(1815年)- 正二位
  • 文化14年(1817年)- 院御厩別当
  • 文化14年(1817年)- 権大納言
  • 文化15年、文政元年(1818年)- 踏歌外弁
  • 文政3年(1820年)- 内教坊別当
  • 文政7年-天保12年(1824年 - 1841年)- 皇太后宮大夫
  • 文政13年、天保元年(1831年 - 1848年)- 武家伝奏
  • 天保14年(1843年)- 大歌所別当
  • 嘉永元年(1848年)- 内大臣
  • 嘉永元年(1848年)- 右近衛大将
  • 嘉永元年(1848年)- 右馬寮御監
  • 嘉永2年(1849年) - 従一位

脚注

]
[脚注の使い方]
  1. ^ 鷹司家系譜

関連項目

]
  • 徳大寺家
  • 鷹司家
  • 皇別摂家

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