フランス領赤道アフリカ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
フランス領赤道アフリカ
Afrique-Équatoriale française (フランス語)
image
image
image
image
1910年 - 1958年 image
image
image
image
image image
(国旗) (国章)
国歌: La Marseillaise(フランス語)
ラ・マルセイエーズ
image
フランス領赤道アフリカの位置
公用語 フランス語
宗教 カトリック
首都 ブラザヴィル(総督所在地)
総督
1908年 - 1917年 マルシャル・ヘンリ・マーリン(英語版)
1951年 - 1957年ポール・ショーヴェ(フランス語版)
高等弁務官
1957年 - 1958年ポール・ショーヴェ(フランス語版)
1958年 - 1960年イヴォン・ブールジュ(英語版)
変遷
設立 1910年1月15日
解体1958年9月
通貨フランス領赤道アフリカフラン
中央アフリカCFAフラン
現在image 中央アフリカ
image チャド
image コンゴ共和国
image ガボン

フランス領赤道アフリカ(フランスりょうせきどうアフリカ、フランス語: Afrique Équatoriale FrançaiseAEF)は、1910年から1958年まで中部アフリカに存在したフランスの植民地である。

構成植民地と統治

]

1910年にガボン植民地、中央コンゴ植民地(現コンゴ共和国)、ウバンギ・シャリ植民地(現中央アフリカ共和国)の3地域に連邦制を敷きフランス領赤道アフリカを設立。1920年にはフランス領西アフリカに所属していたチャド植民地も加わり4地域体制となった[要出典]。総督はブラザヴィルに常駐し、その代理が各地域の主都に赴き統治に当たった。各地域の主都は以下の通り。

  • ガボン植民地(: Colonie du Gabon) - リーブルヴィル
  • 中部コンゴ植民地 - ブラザヴィル(総督所在地)
  • ウバンギ・シャリ植民地 - バンギ
  • チャド植民地 - フォールラミ(現ンジャメナ)

歴史

]

第二次世界大戦期、ドイツ軍によりフランス本土の大半が占領されると、親独のヴィシー政権側にはつかず自由フランスのアフリカにおける活動拠点となった。このとき隣接するフランス領西アフリカはヴィシー政権を支持している。

第二次世界大戦後にフランス本国で第四共和政が成立すると、他の植民地と同様、フランス領赤道アフリカも本国議会に代表を送ることが認められた。住民の政治意識の高まりから1958年9月、フランス共同体内の自治共和国となるかどうかの住民投票が行なわれると、圧倒的多数でこれを承認。連邦は解体され、フランス領赤道アフリカは消滅した。1959年、旧連邦構成地域は暫定的に中部アフリカ共和国連合を創設し連携を維持しようとしたが、結局1960年各共和国は個別に独立した。

関連項目

]
  • フランス植民地帝国
  • アルベルト・シュヴァイツァー

ウィキペディア, ウィキ, 本, 書籍, 図書館, 記事, 読む, ダウンロード, 無料, 無料ダウンロード, 携帯電話, スマートフォン, Android, iOS, Apple, PC, ウェブ, コンピュータ, フランス領赤道アフリカ に関する情報, フランス領赤道アフリカ とは何ですか? フランス領赤道アフリカ とはどういう意味ですか?

0 返信

返信を残す

ディスカッションに参加しますか?
自由に投稿してください!

返信を書く

必須項目は*で表示されています *