セーヴル条約
この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。 (2020年8月) |
| 同盟国ト土耳其国トノ平和条約 | |
|---|---|
![]() セーヴル条約により縮小したオスマン帝国の領土 | |
| 通称・略称 | セーヴル条約 |
| 起草 | 1920年4月 |
| 署名 | 1920年8月10日 |
| 署名場所 | |
| 現況 | 未発効 |
| 締約国 | 連合国とオスマン帝国 |
| 主な内容 | 連合国とオスマン帝国との間に締結された講和条約 |
| 関連条約 | ムドロス休戦協定 |
| 条文リンク | 『条約彙纂第3巻第3部 對勃及對土平和條約竝關係諸條約.外務省条約局』 - 国立国会図書館デジタルコレクション |
セーヴル条約(セーヴルじょうやく、英語: Treaty of Sèvres, フランス語: Traité de Sèvres)は、第一次世界大戦後の1920年8月10日に連合国とオスマン帝国との間に締結された講和条約。フランス・パリ郊外のセーヴルで締結された事からこの名が付く。1918年10月30日に結ばれたムドロス休戦協定を受けての講和条約である。オスマン帝国はこの条約によって広大な範囲の領土を失った。
条約の骨格は1920年4月のサン・レモ会議(1920年4月19日 - 4月26日)で決定されている。
条約を締結したメフメト6世率いるオスマン政府(イスタンブール政府)に対し、ムスタファ・ケマルが主導してアンカラに組織されたトルコ大国民議会(アンカラ政府)はこの条約に反対した。条約締結後に更なる領土の拡大をはかろうとしてギリシャがおこした希土戦争で勝利したアンカラ政府は、ソ連と単独に条約を結んだため、旧連合国は再び交渉の席につき1923年7月にローザンヌ条約を締結、現在のトルコ領が確定した。セーヴル条約ではクルド人自治区の設置が謳われていたが、あらたに結ばれたローザンヌ条約で無効となり、居住の領域がイラク、トルコ、イラン、シリアの国境で分断されたクルド人の問題が引き起こされることとなった。
条約内容
]
- イスタンブールとその近辺地域を除く東トラキアはギリシャ王国に割譲。小アジアのスミルナ地方はギリシアの行政権下に入る。
- マラシュ・ウルファ・アンテプ各州はフランス勢力圏に、コンヤ・バルクエスィルを結ぶ線以南のアナトリア南西部はイタリア王国勢力圏に。
- アルメニアの独立を容認。
- クルディスタン建国のための地域を制定する。
- ボスポラス海峡とその一帯は国際機関「海峡委員会」(英: International Hydrographic Bureau、IHB)の管理下におかれる。
- オスマン帝国軍は5万700人以下まで軍備縮小。
- 帝国の財政はイギリス・イタリア・フランスが決定権を持つ(オスマン債務管理局)。カピチュレーションの継続や外国人特権の復活も規定された。
- アラビア半島におけるヒジャーズ王国独立容認。
- イラク・パレスチナはイギリス、レバノン・シリアはフランスの委任統治下におかれる。
- エジプトはイギリス、モロッコ・チュニジアはフランスの保護下に入る。
脚注
]関連項目
]外部リンク
]- 条約全文
- 英語正文(The World War I Document Archive)
- その他
- 『セーブル条約』 - コトバンク
- 第一次世界大戦の条約
- 1920年の条約
- 1920年のアルメニア
- 1920年のフランス
- 1920年のオスマン帝国
- アルメニアの歴史
- オスマン帝国の歴史
- パレスチナの歴史
- クルド人の歴史
- イタリア王国の講和条約
- 日本の講和条約
- アメリカ合衆国の講和条約
- フランス第三共和制の講和条約
- グレートブリテン及びアイルランド連合王国の講和条約
- オスマン帝国の講和条約
- 大正時代の日本の条約
- トルコ独立戦争
- 未発効の条約
- パリ講和会議
ウィキペディア, ウィキ, 本, 書籍, 図書館, 記事, 読む, ダウンロード, 無料, 無料ダウンロード, 携帯電話, スマートフォン, Android, iOS, Apple, PC, ウェブ, コンピュータ, セーヴル条約 に関する情報, セーヴル条約 とは何ですか? セーヴル条約 とはどういう意味ですか?



返信を残す
ディスカッションに参加しますか?自由に投稿してください!