福田馬之助
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福田 馬之助(ふくだ うまのすけ、1856年11月21日〈安政3年10月24日〉- 1936年〈昭和11年〉4月12日)は、日本の海軍軍人、造船学者。海軍造船中将従三位勲一等功四級工学博士。
経歴
]尾張徳川家の家臣福田頼実の長男として、美濃国(岐阜県)に生まれる。工部大学校に入学(6期生。造船科としては2期生)し、1884年(明治17年)5月に卒業。同年10月、海軍三等工長として横須賀造船所在勤。
1895年(明治28年)12月、呉鎮守府造船部造船科主幹。1896年(明治29年)12月、造船監督官に発令され英国出張。1901年(明治34年)1月に帰国。1906年(明治39年)11月、海軍造船総監。1915年(大正4年)2月、工学博士の学位を取得。同年10月、海軍技術本部第四部長となり、1931年(昭和6年)7月、待命、1918年(大正7年)7月、予備役に編入された。1919年(大正8年)海軍造船中将。
その後、浅野造船所副社長も務めた。
親族
]妻ハルは名古屋市助役などを務めた安藤因蔭の次女。二男三女のうち、息子福田啓二は同じく造船学者・海軍技術中将であり、戦艦大和の基本設計者として知られる。陸軍中将鎌田銓一は甥。
墓所は東京都新宿区西新宿7丁目の常圓寺。
栄典
]- 位階
- 勲章等
- 1905年(明治38年)5月30日 - 勲四等瑞宝章
- 1914年(大正3年)11月30日 - 勲二等瑞宝章
- 1915年(大正4年)
- 11月7日 - 勲一等旭日大綬章・大正三四年従軍記章
- 11月10日 - 大礼記念章
- 1919年(大正8年)12月15日 - 大正三年乃至九年戦役従軍記章・戦捷記章
脚注
]- ^ a b c d e f g h i j k 『日本陸海軍総合事典 第2版』246頁。
- ^ a b 『官報』第2803号「彙報 - 官庁事項 - 官吏薨去」1936年5月9日。
- ^ a b c 福田馬之助『人事興信録』第8版 [昭和3(1928)年7月]
- ^ a b c 『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』336頁。
- ^ a b 『日本海軍将官辞典』322頁。
- ^ 福田馬之助『人事興信録』第4版[大正4(1915)年1月]
- ^ 安藤 因蔭∥アンドウ ヨリカゲ 尾東加茂郡長 ・ 名古屋市助役国学関連人物データベース、国学院大学
- ^ 『官報』第3963号「叙任及辞令」1896年9月11日。
- ^ 『官報』第4402号「叙任及辞令」1898年3月9日。
- ^ 『官報』第5230号「叙任及辞令」1900年12月6日。
- ^ 『官報』第1816号「叙任及辞令」1918年8月21日。
- ^ 『官報』第6573号「叙任及辞令」1905年5月31日。
- ^ 『官報』第700号「叙任及辞令」1914年12月1日。
- ^ 『官報』第1194号「叙任及辞令」1916年7月24日。
- ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
- ^ 『官報』第2528号「叙任及辞令」1921年1月8日。
- ^ 『官報』第2918号「叙任及辞令」1922年4月27日。
参考文献
]- 秦郁彦編『日本陸海軍総合事典 第2版』東京大学出版会、2005年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 海軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本海軍将官辞典』芙蓉書房出版、2000年。
関連項目
]- 岐阜県出身の人物一覧
- 大日本帝国海軍技術中将
- 日本の船舶工学者
- 戦前日本の学者
- 工学博士取得者
- 工部大学校出身の人物
- 従三位受位者
- 勲一等旭日大綬章受章者
- 勲二等瑞宝章受章者
- 岐阜県出身の人物
- 美濃国の人物
- 1856年生
- 1936年没
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