映画プロデューサー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

映画プロデューサー(えいがプロデューサー、film producer)は、映画を企画、立案し、作品にする総合責任者である。

概要

]

日本映画では「製作」や「企画」と表記されることもある。近年は特にその職域が広くなっていることもあり、プロデューサーとしての職分を複数人で分担する場合が大半である。エンドロールでは、「プロデューサー」として連名で表示されることもあれば、「協力プロデューサー」「プロデューサー補」等とされることもある。「企画」は、言葉通り純粋に当該プロジェクトの立ち上げやアイディア提供にだけ関わった人物の場合もあり、大部分の東映などのように(同社は長らく「製作」のクレジットは大川博社長のみにしか許されなかった)プロデューサーを指す場合もある。

日本以外映画作品のエグゼクティブ・プロデューサー(Executive Producer、製作総指揮)は、ここで定義する映画プロデューサーとは、必ずしも一致しない。映画製作において具体的な実務内容が定められておらず、一般には、プロデューサーに対して社会的・経済的信用を付与する存在(日本的に言えば「後見人」)と理解されており、実質的な名義貸しともいえる。その職責は前述の通り名義のみのほか、出資を伴う事もあれば、企画やプロデュースへの関与、中には「総監督」のような立場で製作を全面的に指揮している場合もあり、監督やプロデューサーの上位に来る最高責任者であるが、その定義は明確ではない。『ジョーズ』等の製作をしたリチャード・ザナックによると、賞を受け取るために壇上に上がるのがラインプロデューサーで、ザナックや相棒のブラウンは上がらないとインタビューで説明している。

1980年のイギリス映画『クリスタル殺人事件』の劇中、映画監督役のロック・ハドソンが、映画無知の者に「プロデューサーと監督の違いは何かあるんですか?」と聞かれ、呆れたハドソンが、「プロデューサーは金を調達、監督は使う方。プロデューサーは浪費に怒る。監督は無視して浪費を続け、プロデューサーは病になる」「女優を選ぶのは寝た方」という台詞がある。

近年のハリウッド映画では、リメイク作やアメコミの映画化などで「映画の元となる作品の権利を持つ人物」は、その作品に携わらずとも権利者として「エグゼクティブ・プロデューサー」にクレジットされる慣習となっている[要出典]

これに対し、日本映画におけるエグゼクティブ・プロデューサーは、洋画と同じ意味合いで使われる場合もあるが、「複数のプロデューサーの中の筆頭者」を意味する場合もある。映画プロデューサーの最上位の役職、製作総指揮と訳すが、実際には製作現場での実務はほとんどない場合もある。

主な役割

]
  • 企画立案
  • 資金調達(出資者候補との交渉、確保)
  • プロデューサーチームの編成
  • 脚本家や映画監督、その他のスタッフ選び
  • キャスト選び
  • 準備から撮影、音楽、仕上げ、作品の完成までの全ての工程の包括的管理
  • 配給、販売サイドとの交渉
  • 資金の流れの管理
  • ファイナル・カットの権限

ゼネラルプロデューサー

]

映画由来の言葉として今日では映画以外でも広く使われる「ゼネラルプロデューサー」という言葉がある。例えばJAXAにもゼネラルプロデューサーという役職がある。ゼネラルプロデューサーは映画に於いては英語圏でいうエグゼクティヴ・プロデューサーとほぼ同じ「製作総指揮」「最高責任者」「制作統括」等という意味合いだが、英語圏にはない和製英語で、映画の世界で最初に使われ、以降、経済界、テレビ界、ゲーム業界、イベント業界などで広がっていった。「ゼネラルプロデューサー」という言葉を最初に使用し、言葉を広めたのは東映の二代目社長だった岡田茂。文献で確認できる最初の使用は『映画ジャーナル』1963年1月号の城戸四郎松竹社長との対談で、撮影所長の話の流れになった際、当時東映東京撮影所の所長だった岡田が「ゼネラル・プロデューサーとして、いい作品、面白い作品、受ける作品をつくるためには、まず所員を奮起させる、芸術家や技術者を乗せる、これが第一の仕事だと思うんです。うずを巻かす人物がスタジオには絶対必要です。それがゼネラル・プロデューサーたる所長でなきゃいかんと思っているんですがね」と述べている。岡田は大川博東映初代社長から、1950年27歳で東映の映画製作の大権を握らせてもらい、自伝で「全権委任された私はこの時から実質的なゼネラルプロデューサーになった」と述べている。以降、東映映像作品制作の陣頭指揮を執ったことから、自らゼネラルプロデューサーと名乗るようになった。岡田はこの言葉が好きで、自伝『悔いなきわが映画人生』では計7度使用している。また仲違いが一時あった俊藤浩滋を1973年に東映参与ゼネラル・プロデューサーに就任させている。ただ1960年代から1970年代にかけてはあまり普及せず、時折使われる程度だったが、1980年代に入ると使用が増えていった。1980年3月17日に銀座の東映本社であった『四季・奈津子』の製作発表で、岡田が原作者である五木寛之に「五木氏にはゼネラル・プロデューサーと音楽プロデューサーをやってもらう」と話した。テレビ界では1982年4月にテレビ東京が初めて三枝孝栄を新設したゼネラルプロデューサーという役職に就けた(演出局長、取締役)。1985年のつくば万博(国際科学技術博覧会)では日本放送協会(NHK)会長を務めた坂本朝一が「催事ゼネラルプロデューサー」なる役職に就いた。

急速に言葉として普及したきっかけは、1985年に岡田を中心に創設された東京国際映画祭で、同映画祭の最高責任者としてゼネラルプロデューサーという役職が設けられてから。ここからテレビ界やイベント、各企業のポストとしてゼネラルプロデューサーという役職が多く見られるようになった。横澤彪は1987年7月に鹿内春雄フジサンケイグループ会議議長からフジテレビで初めて設けられた役員待遇編成局ゼネラルプロデューサーに指名され、7つの番組全体を統括する役職になった。1987年に行われた「歌舞伎座百年記念興行」では永山武臣松竹社長がゼネラルプロデューサーを務めた。1989年に横浜市で開催された横浜博覧会では、阿久悠が催事ゼネラルプロデューサーに、名古屋市で開催された世界デザイン博覧会では榮久庵憲司がゼネラルプロデューサーを務めた。1995年に開局した東京メトロポリタンテレビジョンは開局にあたり、村木良彦をゼネラルプロデューサーに起用して、日本放送界初の「ゼネラルプロデューサーシステム」を導入して開局を進めた。今日ではゼネラルプロデューサーという役職・肩書きは、テレビ局を中心に多数使われる。

その他のプロデューサー

]

企画者・製作者をプロデューサーと呼び、業務、ライン上のランク等でプロデューサーを区分する場合がある。

  • 協力プロデューサー - associate producerの日本語への訳語。映画プロデューサーの下で企画、制作などに参加。 一部、もしくは限定された業務を行うプロデューサー。「製作補」の訳語もある。
  • 共同プロデューサー - co-producerの日本語への訳語。主に製作に参加する企業等との交渉や資金の調達などを担当するプロデューサー。
  • 企画プロデューサー - 原案、企画、映画作品自体のコンセプトの礎を担う。以下と区別するための便宜上の語。
  • ラインプロデューサー - 製作担当、製作主任、製作進行、進行助手のラインのトップ。
  • キャスティングプロデューサー - キャスティング業務のプロデュース、演技事務のラインのトップ。
  • 音楽プロデューサー - 劇伴、主題歌のプロデュース。
  • 宣伝プロデューサー - 配給部門における宣伝業務のプロデュース。

教育機関

]
  • 映画専門大学院大学 - 2013年廃止。

脚注

]
[脚注の使い方]

注釈

]

出典

]
  1. ^ a b “社会現象ドラマ「silent」のプロデューサーが語る成功に導く“最強”チーム作りの秘訣とは!”. NTTコミュニケーションズ (2024年). 2025年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年2月16日閲覧。
  2. ^ “第21回 テレビ屋の声テ レ朝・加地倫三GP、『アメトーーク!』『ロンハー』長寿番組で志願した環境変化の狙い”. マイナビニュース. マイナビ (2017年12月12日). 2024年12月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年2月16日閲覧。
  3. ^ “第21回 テレビ屋の声 テレ朝・加地倫三GP、『アメトーーク!』『ロンハー』長寿番組で志願した環境変化の狙い”. マイナビニュース. マイナビ (2017年12月12日). 2024年12月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年2月16日閲覧。
  4. ^ 「テレビ朝日系「緊急取調室」、ゼネラルプロデューサーが語る魅力…練りに練られた台本と濃厚な芝居」『スポーツ報知報知新聞社、2021年7月11日。2025年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年2月16日閲覧
  5. ^ “『信長の野望』シリーズ30周年記念! ゼネラル・プロデューサーのシブサワ・コウ氏がメッセージを公開”. ファミ通.com. ファミ通 (2013年1月7日). 2013年5月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年2月16日閲覧。
  6. ^ “大正大学の学生がTBS系「世界ふしぎ発見!」ゼネラルプロデューサーによる特別講演と作品上映イベントをプロデュースします”. 大正大学 (2017年). 2024年6月17日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年2月16日閲覧。
  7. ^ “経営社会学科がエイベックスゼネラルプロデューサーを招き特別講義を実施”. 江戸川大学 (2023年5月17日). 2024年12月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年2月16日閲覧。
  8. ^ 『ゼネラルプロデューサープログラム. 15』 (PDF) 首相官邸
  9. ^ “【戸張捷ゼネラルプロデューサーと山中博史専務理事、小林茂総支配人が森之嗣あわら市長を表敬訪問】”. Championship News. 日本ゴルフ協会 (2023年9月14日). 2024年4月日 エラー: 日付が正しく記入されていません。(説明)時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年2月16日閲覧。
  10. ^ a b “JAXAシンポジウム2024 『アイデアを形に。未来を動かそう。』”. ファン!ファン!JAXA!. 宇宙航空研究開発機構 (2024年11月9日). 2025年2月7日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年2月16日閲覧。
  11. ^ “JAXA 佐々木宏さんが事業所で講演 福島・郡山市”. TBS NEWS DIG. ジャパン・ニュース・ネットワーク (2024年12月6日). 2025年2月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年2月15日閲覧。
  12. ^ 八月の狂詩曲 - 国立映画アーカイブ
  13. ^ a b 文化通信社 編「1963年(昭和38年)1月 新映画人ひとづくり対談 城戸四郎・岡田茂 『映画づくりの原則は城戸さんのところとちっとも変わらんと思うんです 所長プロデューサーはどうあるべきか?」『映画界のドン 岡田茂の活動屋人生』ヤマハミュージックメディア、2012年、307頁。ISBN 978-4-636-88519-4。 
  14. ^ a b 金田信一郎「岡田茂・東映相談役インタビュー」『テレビはなぜ、つまらなくなったのか スターで綴るメディア興亡史』日経BP社、2006年、211-215頁。ISBN 4-8222-0158-9。 
  15. ^ “【岡田茂・東映相談役】テレビとXヤクザ、2つの映画で復活した”. 日経ビジネス (2006年2月3日). 2006年7月24日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年2月16日閲覧。
  16. ^ 中川右介『社長たちの映画史』日本実業出版社、2023年、183,275-276頁。ISBN 978-4-8158-0905-8。 
  17. ^ a b 99.第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」 第5節「東映ゼネラルプロデューサー岡田茂・映画企画の歩み①任俠映画」
  18. ^ 168.第5章「映画とテレビでトップをめざせ!不良性感度と勧善懲悪」 第33節「岡田茂の不良性感度重視の映画作り まとめ 前編」 - 創立70周年特別寄稿『東映行進曲』(東映)
  19. ^ a b 佐藤忠男 編『日本の映画人 日本映画の創造者たち』日外アソシエーツ、2007年、122頁。ISBN 978-4-8169-2035-6。 
  20. ^ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、92頁。ISBN 4-87932-016-1。 
  21. ^ 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、176,188頁。ISBN 4-87932-016-1。 
  22. ^ 「大川博インタビュー」『キネマ旬報』1968年12月上旬号、キネマ旬報社、38-41頁。 
  23. ^ “東映東京撮影所の<いま> ~東映東京撮影所所長・木次谷良助氏が語る~”. 映像∞文化のまち ねりま. 練馬区役所 (2023年9月19日). 2023年9月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年2月16日閲覧。
  24. ^ 中川右介『社長たちの映画史』日本実業出版社、2023年。ISBN 978-4-8158-0905-8。 
  25. ^ 石井輝男、福間健二『石井輝男映画魂』ワイズ出版、1992年、118頁。ISBN 4-948735-08-6。 
  26. ^ 三鬼陽之助「三鬼陽之助のトップ会談〈第95回〉 "任侠路線で観客頂戴いたします" ゲスト・東映社長岡田茂氏」『週刊サンケイ』1971年11月5日号、産業経済新聞社、137頁。 
  27. ^ a b 岡田茂『悔いなきわが映画人生 東映と、共に歩んだ50年』財界研究所、2001年、92,103,112,176,188,200,220頁。ISBN 4-87932-016-1。 
  28. ^ 俊藤浩滋、山根貞男『任侠映画伝』講談社、1999年、228-231頁。ISBN 4-06-209594-7。 
  29. ^ 藤本真澄(東宝・専務取締役)・白井昌夫(松竹・専務取締役)・岡田茂(東映・常務取締役)、聞く人・北浦馨「夢を売る英雄たちの会談 3人のゼネラル・プロデューサーの果断なる現実処理」『映画時報』1968年10月号、映画時報社、18頁。 
  30. ^ 河原一邦「邦画マンスリー 『四季・奈津子』」『ロードショー』1980年10月号、集英社、224頁。 
  31. ^ 「製作ニュース 東映洋画部が『四季・奈津子』製作発表」『映画時報』1980年4月号、映画時報社、19頁。 
  32. ^ “人事・機構改革ーテレビ東京”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 2. (1982年4月6日) 
  33. ^ 「催事ゼネラルプロデューサー坂本朝一氏(前NHK)会長にきく『多彩な催事で楽しい博覧会に』」『プロメテウス 労働の解放をめざす労働者党理論誌』1984年3月号、全国社研社、34–35頁。 
  34. ^ 「映画界重要日誌」『映画年鑑 1984年版(映画産業団体連合会協賛)』1984年12月1日発行、時事映画通信社、12頁。 
  35. ^ 第27回東京国際映画祭 | 連載企画第3回:【映画祭の重鎮が語る、リアルな映画祭史!】-平成時代に入って徳間体制へ(1989年-1992年)
  36. ^ “結城良煕さん 大苦戦の映画新生路線(メディアの顔)”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 4. (1988年12月4日) 
  37. ^ 「日本列島を席巻する恐竜ブームを演出した陰の立役者 ディノ・アライブ実行委員会ゼネラルプロデューサー 八木大樹」『経済界』1993年10月12日号、経済界、64–65頁。 
  38. ^ a b 「TPIS T.A.L.K 『イバらず、オゴらず時代を呼吸する制作者』 フジテレビ編成局ゼネラルプロデューサー 横澤 彪」『テピス』1988年2月号、学生援護会、6–7頁。 
  39. ^ “「独裁者を放逐するいい機会」フジ日枝久氏の “同世代OB” が引退勧告…「中居トラブル」の遠因となった「縁故採用」の悪影響”. SmartFLASH. 光文社 (2025年2月12日). 2025年2月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2025年2月16日閲覧。
  40. ^ “近代歌舞伎の百年特集ー節目の百年、松竹社長永山武臣氏に聞く・質の高い公演を。”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社): p. 11. (1987年11月25日) 
  41. ^ “地域づくり『創』のとき 市政100年、ことしは38都市”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 新年特設面27頁. (1989年1月1日) {{cite news}}: |page(s)=にp.など余分な文字が入力されています。 (説明)
  42. ^ “大阪は流行の先端になれるか ファッションの可能性探るフォーラム”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 17. (1989年9月1日) 
  43. ^ 「'94メディア展望 東京メトロポリタンテレビジョン 『開局準備いよいよ正念場を迎えるTMT ゼネラルプロデューサー起用し一気呵成』」『月刊放送ジャーナル』1994年1月号、放送ジャーナル社、52–53頁。 
  44. ^ “東京メトロポリタンテレビのゼネラルプロデューサーに村木良彦さん”. 朝日新聞 (朝日新聞社): p. 11. (1994年3月1日) 
  45. ^ 「『ゼネラルプロデューサー制導入 ー東京メトロポリタンテレビジョン(株)ー 4局体制で本格開局準備入り』」『月刊放送ジャーナル』1994年4月号、放送ジャーナル社、53頁。 
  46. ^ 前川英樹 (2008年2月1日). “Maekawa Memo No91. 「追悼 村木良彦さんのこと」”. TBSメディア総合研究所. 2025年2月16日閲覧。

関連項目

]
  • プロデューサー
  • 映画プロデューサー一覧
    • 日本の映画プロデューサー一覧
  • アービング・G・タルバーグ賞 - プロデューサーを対象とした賞

ウィキペディア, ウィキ, 本, 書籍, 図書館, 記事, 読む, ダウンロード, 無料, 無料ダウンロード, 携帯電話, スマートフォン, Android, iOS, Apple, PC, ウェブ, コンピュータ, 映画プロデューサー に関する情報, 映画プロデューサー とは何ですか? 映画プロデューサー とはどういう意味ですか?

0 返信

返信を残す

ディスカッションに参加しますか?
自由に投稿してください!

返信を書く

必須項目は*で表示されています *