今給黎教子
経歴
鹿児島県日置郡吹上町に生まれた。10歳のとき、小学校の教師をしていた父が死去する[要出典]。
鹿児島市立紫原中学校時代、R・L・グレアムの航海記『ダブ号の冒険』を読み、ヨットに関心を持つ。1980年、鹿児島県立錦江湾高校に入学し、ヨット部に所属。1981年から1987年にかけて、国民体育大会のヨット競技に7年連続出場、高校総体で3位に入賞。高校卒業後、鹿児島市役所に就職し、ヨット部に所属。1987年、市役所を退職。
1988年、ヨット「海連垂乳根」で日本人女性として初めて、太平洋単独往復に成功した。1991年、オーストラリアから日本までの太平洋縦断レースで準優勝した[要出典]。同年10月12日、日本人初の東回りでの単独無寄港世界一周に挑戦するため、ヨット「海連」で鹿児島を出航、翌1992年7月5日に帰還して成功した。堀江謙一に次ぐ日本人2人目、かつ女性では初めての達成だった。なお、鹿児島に帰港する直前、「合同記者会見以外のインタビュー、出演、撮影などを有料とする」と発表し、地元報道機関の間に波紋を広げた。対応は各社で分かれた。
1994年、環太平洋レースCクラスに出場した[要出典]。1997年、国際帆船レースに出場した[要出典]。
2024年6月17日、単独無寄港世界一周航海に用いたヨットが第8回ふね遺産(日本船舶海洋工学会)に認定された。
著書
参考文献
脚注
注釈
- ^ スループ型、全長10.64m、水線長8.75m、最大幅3.50m、喫水1.80m、キール重1.88t、自重4.48t、マスト高14.00m、最大帆面積58.26m2。
- ^ 操舵装置の故障のため、1992年4月28日、オーストラリア沖の洋上で、ホバリングしているヘリコプターから物資(修理部品、食料など)の補給を受けたことから、「無寄港」については疑義がある。ギネスブックは「無寄港」と認定していない(朝日新聞・東京版(朝刊) 1992年7月18日 26面『今給黎さんの無寄港認めず : ギネスブック』)
- ^ インタビューは10時間100万円、航海中の写真は4枚1組10万円。
出典
関連項目
- 今給黎 (小惑星)
- 海連 (小惑星)
外部リンク
- 公式サイト[リンク切れ]
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