パルマ公国
- パルマ・エ・ピアチェンツァ公国
- Ducato di Parma e Piacenza
-  ← 
 ←
 ←1545年 - 1802年(1808年) 
 1814年 - 1859年→ → → ( 国旗(1851年 - 1859年)) (国章(ブルボン=パルマ)) 
- 国の標語: Dirige me Domine!
 神よ、我を導き賜へ!
 1796年時点のパルマ公国の領土(オレンジ)
-  言語 イタリア語 
 エミリア・ロマーニャ語
 ラテン語宗教 カトリック 首都 パルマ 
 ピアチェンツァ- 公
-  1545年 - 1547年 ピエール・ルイージ・ファルネーゼ 1854年 - 1860年 ロベルト1世 
- 人口
-  19世紀推定 501,000人 
- 変遷
-  建国 1545年9月16日 アーヘンの和約 1748年4月24日 アランフエス条約 1801年3月1日 フランスによる正式な併合 1808年 復活 1814年4月11日 中央統合諸州の結成 1859年12月8日 
 通貨 リラ 現在 イタリア 

パルマ・エ・ピアチェンツァ公国(パルマ・エ・ピアチェンツァこうこく、イタリア語: Ducato di Parma e Piacenza)は、イタリア北部にあった国で、1545年に創られ1860年のイタリア統一まで存続した。
歴史
]ファルネーゼ家出身の教皇パウルス3世が息子のピエール・ルイージ・ファルネーゼに教皇領の一部であったパルマとピアチェンツァを分けて創建したのが最初である。
1731年にアントニオ・ファルネーゼが跡継ぎのないまま亡くなると、アントーニオの姪エリザベッタ・ファルネーゼを母に持つスペイン・ブルボン家のカルロス王子(後のスペイン王カルロス3世)が短期間公位に就いた。
1733年からのポーランド継承戦争の結果、カルロスはオーストリア・ハプスブルク家領だったナポリ王国・シチリア王国を獲得するかわりに、パルマ公国をハプスブルク家に割譲した。その後、オーストリア継承戦争の講和条約である1748年のアーヘンの和約によって、再びスペイン・ブルボン家のカルロス3世の弟フィリッポ・ディ・ボルボーネへと公位が渡った。
ナポレオン・ボナパルトのフランスに侵略された後、1814年にはナポレオンの妻でハプスブルク家皇女のマリーア・ルイーザに公位が渡され、彼女の亡くなった1847年に再び公位がブルボン=パルマ家に戻された。
1860年、住民投票によりサルデーニャ王国への併合が決定され、そのままイタリア王国に統一された。
関連項目
]- パルマ公の一覧
- ファルネーゼ家
- ブルボン=パルマ家
- パルムの僧院
- パルマ公国
- かつてイタリアに存在した国家
- 神聖ローマ帝国の領邦国家
- エミリア=ロマーニャの歴史
- パルマ
- イタリア・オーストリア関係
ウィキペディア, ウィキ, 本, 書籍, 図書館, 記事, 読む, ダウンロード, 無料, 無料ダウンロード, 携帯電話, スマートフォン, Android, iOS, Apple, PC, ウェブ, コンピュータ, パルマ公国 に関する情報, パルマ公国 とは何ですか? パルマ公国 とはどういう意味ですか?





返信を残す
ディスカッションに参加しますか?自由に投稿してください!