アウンサンスーチー
| アウンサンスーチー အောင်ဆန်းစုကြည် Aung San Su Kyi | |
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初代国家顧問 | |
| 任期 2016年4月6日 – 2021年2月1日 | |
| 大統領 | ティンチョー ウィンミン |
| 前任者 | (新設) |
| 後任者 | (廃止) |
大統領府大臣・外務大臣 | |
| 任期 2016年3月30日 – 2021年2月1日 | |
| 大統領 | ティンチョー ウィンミン |
教育大臣・電力エネルギー大臣 | |
| 任期 2016年3月30日 – 2016年4月6日 | |
| 大統領 | ティンチョー ウィンミン |
連邦議会人民代表院議員 | |
| 任期 2012年5月2日 – 2016年3月31日 | |
党首 | |
現職 | |
| 就任 2011年11月18日 | |
書記長 | |
| 任期 1988年9月27日 – 2011年11月18日 | |
| 個人情報 | |
| 生誕 | 1945年6月19日(80歳) |
| 市民権 | ミャンマー人 |
| 政党 | |
| 宗教 | 仏教 |
| 署名 | |
| アウンサンスーチー အောင်ဆန်းစုကြည် Aung San Suu Kyi | |
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| 思想 | 仏教の慈悲、非暴力 |
| 活動 | ガンディーの非暴力民主化運動 |
| 所属 | |
| 投獄 | 自宅軟禁3回 合計約14年9か月(現在は解除) |
| 受賞 | ・トロルフ・ラフト人権賞(1990年) ・サハロフ賞(1991年) ・ノーベル平和賞(1991年) ・議会名誉黄金勲章(2008年) ・レジオン・ドヌール勲章コマンドゥール(2012年) |
| 母校 | デリー大学(政治学学位) オックスフォード大学(学士、修士) ロンドン大学SOAS(修士) |
| 影響を受けたもの | マハトマ・ガンディーの非暴力不服従運動 |
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アウンサンスーチー(ビルマ語: အောင်ဆန်းစုကြည်、ラテン文字表記: Aung San Suu Kyi、ALA-LC翻字法: ʼOṅʻ Chanʻ" Cu Kraññʻ、IPA: /àʊN sʰáN sṵ tɕì/。1945年6月19日 - )は、ミャンマーにおける民主化運動の指導者、元下院議員、元国家顧問。ミャンマーの英雄アウンサン将軍の娘である。
2021年ミャンマークーデターによりミャンマー軍(以下、国軍)に拘束され、19件の罪で有罪となり、計33年の懲役・禁錮刑を受け、2025年9月現在、服役中。
敬虔なテーラワーダ仏教徒で、使用言語はビルマ語、英語、フランス語、日本語。2013年、訪仏時はフランス語で講演し、訪日時は英語で記者会見した。
名前について
]アウンサンスーチーの名前は、父親の名前(アウンサン)に、父方の祖母の名前(スー)と母親の名前(キンチー)から一音節ずつ取ってつけられたものである。アウン=勝つ、サン=稀に、スー=集まる、チー=清らか、という意味があり、これらを合わせると「奇妙な勝利の輝かしい集積」という意味になる。
ミャンマーに住むビルマ民族は、性別に関係なく姓を持たない。アウンサンスーチーの「アウンサン」も姓や父姓ではなく、個人名の一部分に過ぎない。彼女の名前は「アウンサンスーチー」で、原語では分割して呼ばれることが多い。日本の大手メディアでは毎日新聞が1996年から、朝日新聞が2012年から「アウンサンスーチー」と表記しているがそれ以外は「アウン・サン・スー・チー」と表記している。
ビルマ人は、通常、年配の女性につける「女史」に相当する敬称「ドー(Daw)」をつけて「ドー・アウンサンスーチー」と呼ぶ。親しみを込めて「ドー・スー」ということもある。
来歴
]生い立ち
]1945年6月19日、疎開先のエーヤワディー地方域ムウェイサウン村(Hmway Saung)で生まれる。母親のキンチーは看護婦で、上にアウンサンウー、アウンサンリンという2人の兄がいる。キンチーはスーチーの後、もう1人の女児アウンサンチッを出産したが、わずか数日しか生きられなかった。スーチーが生まれた当時はビルマの戦いの末期で、劣勢の日本軍を裏切った父アウンサン率いる反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)攻勢もあり、5月にヤンゴンから日本軍が駆逐され、日本の支援を受けていたビルマ国も崩壊した。イギリスの支配が回復すると、一家はヤンゴンに移った。その時、最初に住んだ家が、現在のボージョーアウンサン博物館である。
1947年、スーチーが2歳のときに父アウンサンが、政敵ウー・ソオの部下に暗殺されたが、スーチーの記憶にはまったく残っていない。1953年、スーチーが8歳の時、9歳の次兄のアウンサンリンが自宅の庭の池で溺死した。スーチーは長兄のアウンサンウーより、アウンサンリンとのほうがずっと親しく、これは非常に悲しい出来事だつたのだという。その後、一家はヤンゴン市内のインヤー湖畔、ユニバーシティ・アベニュー54番地にある新居へ引っ越した。三度にわたる自宅軟禁を含め、2021年クーデターで拘束されるまで、スーチーが住み続けた家である。
キンチーは、残った2人の子供に、慈悲、謙虚さ、誠実さなどテーラワーダ仏教にもとづく厳しい教育を授け、読書を奨励した。また、キンチーの祖父がキリスト教徒に改宗したこともあり、スーチーは子供の頃から聖書も読んでいた。キンチーの躾は厳しく、厳格に育てられたのだという。
学生時代
]スーチーは、ヤンゴンの聖フランシス修道会学校を経て、ダゴン郡区にあった、ビルマのトップ英語学校メソジスト高等学校(現・ダゴン第一高等学校)に通った。1年後輩に、のちにNLD政権下で大統領となるティンチョーがいた。スーチーは成績優秀で、特に語学が得意だった。英語学校時代、スーチーは、ビルマ文学や仏教文学だけでなく、ギリシャ神話やヨーロッパの古典、詩や散文の読書にも励んだ。女性は軍人になれないとわかった後の夢は作家になることだった。また、キンチーがミャンマーのガールスカウトの発起人だったこともあり、ガールスカウトにも参加していた。
1960年、スーチーが15歳の時、キンチーが、ウー・ヌ政権下で駐インド兼駐ネパール特命全権大使に任命され、スーチーは母と一緒にニューデリーに移り、同地で、アイルランド人のカトリック修道女が経営する男女別学・イエスと聖母マリア修道会付属学校に通った。厳格な校風で、スーチーはあまり馴染めなかったようである。1962年から、デリーでもっとも優秀な上流階級の子女が通うデリー大学・スリラム・カレッジで政治学を学び、1964年に卒業。インドでは、アウンサンと親交を結んでいたジャワハルラール・ネルーの一家と交流し、マハトマ・ガンディーの非暴力不服従運動の影響を受けたとされる。ネルーは、スーチー一家のために、アクバル通り24番地に立派な屋敷を用意し、彼らが住んでいる間は「ビルマハウス」と呼ばれていた。現在はインド国民会議の本部として利用されている。インドでの経験は、後年、仏教の硬直性およびエリートの不在が、ミャンマーの発展を阻んだと主張する『ビルマとインド: 植民地主義下の知的生活のいくつかの様相』という論稿に結実する。
1964年から1967年まで、イギリスのオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジ哲学政治経済学部(PPE)で哲学・政治学・経済学を専攻した。大学時代の後見人は元駐緬イギリス大使・ポール・ゴア=ブースとその妻・パトリシアだった。大学入学後、スーチーは非常に洗練された美しい女性となり、男子学生の注目の的となった。スーチー自身は当時の「性の解放」の雰囲気には馴染めず、「夫となる男性以外とは誰とも寝ない」と公言して、同級生の失笑を買っていたのだという。それでも、のちに外務省に入ったタリク・ハイダンというパキスタン人男性と交際していたが、結局、実を結ばなかった。その後、ミャンマー人男性の恋人ができたが、この交際も実を結ばず。しかし、この男性は反体制派を気取っていたものの、その後、ネ・ウィン政権の下で大臣となり、結果的には吉と出た。
在学中、スーチーは誰とでも分け隔てなく交際した。元・スリランカ首相・シリマヴォ・バンダラナイケの娘・スネトラ・バンダラナイケ やソ連の反体制作家で、『ドクトル・ジバゴ』の作者でもあるボリス・パステルナークの姪・アン・パステルナークと親しかったが、在学中、スーチーが政治活動を行っていた形跡はない。ただ、1965年の夏、家族ぐるみの付き合いがあった元歌手のタンイーが住むアルジェリアのアルジェを訪れた際、軍事クーデターに遭遇。スーチーは、反体制活動で命を落とした人々の未亡人のためのボランティア活動に数週間従事した。
しかし、母親が勧めた興味のない学科を専攻したせいで大学の成績は不振で、専攻を林業または英文学へ変更しようとしたものの、認められず、結局、可の評価で卒業したため、大学に残って研究を続けることは困難となった。
大学卒業後
]大学卒業後はしばらく、家庭教師のアルバイトをしながら、ミャンマー学者のヒュー・ティンカーのアシスタントとして働き、その際、チベット文化を研究していたマイケル・アリスと出会い、交際を開始した。しかし1968年、当時、国連広報担当官として働いていたタンイーを頼ってニューヨークへ渡り、マンハッタンで2人で暮らしながら、ニューヨーク大学大学院でビルマ政治史の専門家・フランク・トレイガー(Frank Trager)に師事しれ国際関係論を専攻。しかしすぐに中退し、当時、国連事務総長だったウ・タントがビルマ人をニューヨークに呼び寄せていたという事情もあり、1969年~1971年の間、ニューヨークの国際連合事務局行政財政委員会で書記官補を務めた。地位も収入も低い仕事だったが、スーチーは仕事の傍ら病院でボランティア活動も行った。この時代、アメリカではマーティン・ルーサー・キングにより公民権運動が全土で巻き起こっており、スーチーも彼の中にガンディーと同じ非暴力不服従の精神を見出し、大いに感化されたようだが、デモに参加することはなかった。
1972年、当時、チベット研究者となり、ブータン在住だったマイケル・アリスと長年の愛を実らせて結婚。国連を退職し、主婦業の傍ら1972年から1973年までブータン外務省研究員として働き、国連問題に関して外務大臣へ助言を行った。1973年に長男のアレキサンダーを、1977年に次男のキムをもうける。2人はそれぞれ、ミンサンアウン(Myint San Aung)、ティンリン(Htein Lin)というビルマ名も付けられた。
1973年、アリスがオックスフォード大学セントジョンズ・カレッジの特別研究員の職を得たため、一家はイギリスに戻り、オックスフォードの高級住宅街・パークタウンに住む。家にはテレビも車もなく、スーチーは子供を自転車に乗せて学校に通わせていた。子供たちには口答えを許さず、贅沢もさせなかったのだという。スーチーは主婦業に忙しかったが、年に1回、アウンサンの命日に当たる7月19日の殉難者の日にはミャンマーに帰国し、儀式に参加していた。
子育てが一段落した1980年頃から、スーチーはオックスフォード大学ボドリアン図書館でパートタムの職に就き、ミャンマー語の蔵書を担当した。再び研究者の道を志し、英文学とミャンマー政治史で大学院入学を目指したが、大学の成績が悪かったせいでいずれも不合格となった。しかし、1985年からロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)で授業を受け、ミャンマー文学で大学院入学を許可された。またこの頃、作家になりたいというかつての夢を実現すべく、1984年にオーストラリアのクイーンズランド大学の『Leaders of Asia Series』に『私の父、アウンサン』という論稿を寄稿し、1985年には『ビルマを訪ねよう(Let's Visit Burma)』というタイトルの子供向けビルマガイドブックを出版した。
1985年10月~翌年7月までの約9か月間、国際交流基金の支援で京都大学東南アジア研究センター(現・東南アジア研究所)の客員研究員として、キムを伴って来日。その際、大日本帝国軍関係者への聞き取り調査や、外務省外交史料館、旧防衛庁戦史部、国会図書館などでの資料調査を行い、父アウンサンについての歴史研究を進めた。この経験は彼女にとって非常に貴重なものになり、今まで漠然としていたアウンサンのイメージが、より具体的なものになったのだという。オックスフォードで知り合った大津典子が、夫婦で彼女の世話をした。スーチーは日本人の勤勉さや文化に一目置いていたが、一方、当時バブル経済の真っ最中で尊大になっていた日本人や、女性に対して傲慢に振る舞う日本人男性に失望したのだという。
京都での研究を終えた後、スーチーはキムとともにビルマに戻り、1986年にインドのシムラーに移って、マイケル、アレクサンダーと合流した。当時、アリスはシムラーのインド高等研究所の研究員として働いており、スーチーも特別研究員を2年間務めた。この際、スーチーは『ビルマとインド:植民地主義下における知的生活のいくつかの様相(Burma and India Some Aspects of Intellectual Life under Colonialism)』を執筆したが、出版されたのは1990年6月になってからだった。その後、スーチーは、1986年7月~10月までヤンデネの母を訪ねたのち、オックスフォードに戻った。
8888民主化運動と1990年総選挙
]1988年3月31日に母が危篤との知らせを受け、病気の母を看護するために、夫と息子2人を伴って4月2日にビルマに戻る。1988年3月にヤンゴン工科大学の学生が警察治安部隊・ロン・テインに殺害されたのをきっかけに始まった8888民主化運動は、次第に広範な国民運動となり、激化。7月23日、1962年から独裁政治を敷いていたネ・ウィンがビルマ社会主義計画党(BSPP)議長職を辞任した。
8月26日、スーチーはシュエダゴン・パゴダで50万人に向けて演説を行い、一躍、抵抗運動のリーダーの1人に踊り出た。人々はスーチーにアウンサン将軍の面影を見たのである。9月18日、国軍がクーデターを起こし、ソーマウン議長を首班とする国家法秩序回復評議会(SLORC。のちのSPDC《国家平和発展評議会》に改称)が成立。民主化運動は徹底的に弾圧され、数千人の犠牲者が出た。
9月27日、翌1990年に予定された選挙への参加を目指して、国民民主連盟(NLD)の結党に参加、スーチーは書記長に就任した。議長のアウンジー、副議長のティンウーに次いで序列3位だったが、すぐにアウンジーが「スーチーはビルマ共産党(CPB)の取り巻きに囲まれている」と批判して脱党し、。新たな議長にはティンウー、副議長にはスーチーが就任した。しかし、ティンウーはあくまでも名目上のリーダーであり、事実上のリーダーはスーチーだった。
10月30日、スーチーは地方の支持を獲得すべく地方遊説を開始。スーチーは花を髪に飾り、ミャンマーの伝統服・ロンジーに身を包むスタイルで全国各地を回り、花束や香水、スタンディングオベーションなど各地で熱狂的な歓迎を受けた。12月27日、病床のキンチーが亡くなり、翌1989年1月1日には、ソーマウン、キン・ニュンなどのSLORCの要人がスーチーの自宅を弔問に訪れ、両者は初めて顔を合わせ、活発に議論を交わしたのだという。兄のアウンサンウーも久しぶりに帰国し、葬儀に出席した。翌1月2日、葬儀が執り行われ、10万人以上の人々が、スーチーの自宅からシュエダゴン・パゴダ近くのウ・タントの墓地近くに建てられた墓まで行進した。行進する人々はNLDの旗や横断幕を掲げ、反政府歌を歌い、「民主主義のために闘い倒れた同志たちを忘れない!」などとシュプレヒコールを上げたが、このために密かに地下活動から戻った学生運動家・ミンコーナインらが規律と威厳をもって参加するように呼びかけたこともあり、懸念された大きな混乱はなかった。
葬儀後、スーチーは地方遊説を再開。1989年4月5日、エーヤワディ地方域・ダヌビューで、行進するスーチー以下NLD支持者の一団に国軍兵士が一斉にライフルを向けるという事件が発生したが、間一髪のところで危機を免れた(ダヌビュー事件)。ヤンゴンに戻った後、スーチーがイギリス大使館に赴いて、この話をしたことにより、この事件はBBCで世界中に報じられ、スーチーは生ける伝説と化した。しかし、この事件をきっかけに、スーチーとSLORCとの関係は不可逆的に悪化、国軍の弾圧は激化していった。そして、アウンサン将軍の命日に当たる1989年7月19日の殉教者の日、NLDは政府主催の式典とは別にNLD主催の式典を計画したが、国軍はヤンゴン各地に兵士を配備し、夜間外出禁止令を発令してこれに対抗。結局、スーチーは直前に式典を中止したが、SLORCを「ファシスト政権」呼ばわりして、国軍幹部を激怒させ、翌日、スーチーとティンウーは自宅軟禁下に置かれ、被選挙権を剥奪され、他にも多くのNLD幹部が逮捕投獄された。1990年5月27日、総選挙が実施され、NLDは492議席中の392議席(占有率81%)を獲得して圧勝した。しかし、SLORCは「新憲法とそれにもとづく強力な政府の樹立が政権移譲の条件」と従来の主張を譲らず、選挙結果を反故にして国政を担当し続ける意思を表明し、NLD政権誕生とはならなかった。
最初の自宅軟禁とノーベル平和賞授賞
]
自宅軟禁下に置かれた7月21日から、スーチーは自分も刑務所に収監するよう抗議して、アリスと息子2人が見守る中、ハンガーストライキに入った。水とフルーツジュースしか口にしないスーチーはみるみる痩せていったが、当局が「拘束した若者たちには拷問を加えない」と約束したため、12日目にようやくハンストを終了した。スーチーは5kgほど痩せていたのだという。9月2日、アリスと息子2人はミャンマーを去り、二度と家族全員が揃うことはなかった。
自宅軟禁中、SLORCは、政治活動をしないことを条件にスーチーに国外退去を勧告し続けていたが、スーチーはこれを拒否して、国内に留まって民主派を支援し、国際世論を味方につける道を選んだ。自宅軟禁下のスーチーは、主にラジオでニュースを聞き、運動をし、読書をし、ピアノを弾き、SLORCからの援助を拒否していたので生活費を捻出するために家具を売り、瞑想をして過ごしていたと伝えられる。自宅軟禁下でも、スーチーの国際的名声は高まり、1990年10月12日にトロルフ・ラフト人権賞、1991年7月10日にサハロフ賞を受賞し、他にもさまざまな賞や大学の学位を贈られた。そして、10月14日、夫・アリスの熱心なロビー活動が実り、ノーベル平和賞を受賞した。賞金の130万ドルはビルマ国民の健康と教育のための基金の設立に使われた。ただし、自宅軟禁下のため授賞式に出席できず、代わりに長男のアレキサンダーが受け取った。
同年、アリスが編集した、「人を堕落させるのは権力ではなく、恐怖です」の有名な一文から始まる『恐怖からの自由(邦題:自由 自ら綴った祖国愛の記録)』が出版され、世界中でベストセラーとなり、ますますスーチーの名声が高まった。また、この本の印税によってスーチーは生活苦から脱することができた。1992年5月にはアリスとの面会を許されたが、アリスがスーチーの自宅を訪れた際、スーチーは階段の上に立って、「ここから先には来られません」と告げ、アリスは母屋の隣になるスーチー叔母の家に寝泊まりしたのだという。
1995年7月10日、スーチーは6年ぶりに自宅軟禁から解放された。ちなみに解放後、真っ先に訪れたのは駐緬日本大使館である。
度重なる自宅軟禁
]解放後のスーチーはNLD書記長に再就任し、毎週末、ティンウーとチーマウンとともに自宅の門の向こうから市民に語りかける集会を始めた。これは一種の政治イベントとなって彼女の人気をますます高めるとともに、国際的知名度も上昇した。軟禁中、読書と瞑想に耽ったおかげで、スーチーは明らかに仏教に傾倒しており、その言葉には仏教用語が増えていた。また、欧米諸国の経済制裁が南アフリカ共和国のアパルトヘイトを廃止に追いこんだという認識から、ミャンマーに対する経済制裁を諸外国に訴えるようになった。
1991年のノーベル平和賞授賞以来、スーチーの国際的名声は頂点にまで高まり、しかもそれは政治家というよりも、まるで「聖人」扱いだった。ノーベル平和賞の候補者に上がったこともある、ミャンマー人の人権活動家・マウンザーニは「多くの西欧諸国のエキスパートたちが、アウンサンスーチーを『女性の仏陀』という型にはまった聖人君子のように思い描いていた」と述べている。一方、タンミンウーは「1990年代は南アフリカ共和国のアパルトヘイトに代わる標的として、2000年代はネオコンの標的、2010年代はアラブの春のリベンジとしてミャンマーが利用された」と述べている。そして、父親のカリスマ性、国民的人気、国際的名声をバックに、スーチーは再びSLORCに対して強硬路線に出始め、両者の関係は悪化した。
1999年初頭、アリスが前立腺がんの治療のためイギリスの病院に入院。ローマ教皇や国連事務総長コフィー・アナンなどが、アリスにミャンマー入国ビザを発給するように要請したが、SPDCは「スーチーがイギリスに渡航して彼に会うことは自由だが、ミャンマーへの再入国は認めない」と主張し、結局、2人は顔を合わせられないまま、アリスは3月27日、53歳の誕生日に亡くなった。スーチーは悲しみに暮れていたと伝えられるが、家族を犠牲にしたということで、スーチーはますます神話化していった。
また、1990年代後半から2000年代前半にかけて、スーチーの強硬路線、特にミャンマーに対する経済制裁に反対して、NLDからの離党者が相次いだ。この頃には、党内に表立ってスーチーに逆らえる雰囲気はなく、それは外交官やジャーナリストにも及んだ。スーチーの伝記『The Lady』の著者・バーバラ・ビクター(Barbara Victor)は、以下のように述べている。
記事や書籍を執筆する人であれ、学術研究に携わる学生であれ、スーチーやビルマの政治情勢全般に関心を持つ人々は、すぐに従わなければならない明確なルールがあることに気づくだろう…「ビルマの民主化闘争に関するいかなる関与や発言も、SLORCへの非難のみを含むべきである」という。スーチー神話の解体は、このゲームには含まれない。 — バーバラ・ビクター
結局、スーチーのゼロサム的な強硬路線は裏目に出た。2000年代に入ってもSPCDとスーチーの対立は続き、タンシュエを選挙結果無視の罪で最高裁に提訴したり、再び無許可で地方遊説を行って車内籠城したり、国家議員代表者委員会(CRPP)を再び開催して、あらためて独自の憲法案を起草する決意を表明したりした。そして、2000年9月21日、ヤンゴン駅で列車でマンダレーに向かおうとしているところでスーチーは拘束されて再び自宅軟禁下に置かれた。この後、国連ミャンマー特使・ラザリ・イスマイルの仲介で、2002年5月6日に一旦解放されたが、翌2003年5月30日、サガイン地方域・モンユワ近郊のディベイン村で、遊説中のスーチーが乗った車がUSDAのメンバーと思われる数千人の暴徒に襲撃される事件が発生し、政府発表によれば4人、目撃者の証言によれば70人の死者が出た(ディベイン虐殺事件)。事件後、スーチーは、ティンウーなど100人以上のNLD党員とともに身柄を拘束され、三度、自宅軟禁下に置かれた。
三度目の自宅軟禁
]自宅軟禁中、スーチーが面会できたのは世話係の母娘、主治医のティンミョーウィン、SPDCとの連絡役・アウンチー、国連特使のイブラヒム・ガンバリ、そして、後述するようにスーチーが刑事告発された時の弁護士だけだった。電話もインターネットもなく、手紙も受け取れず、ラジオだけが唯一の外界との繋がりだった。自宅軟禁は半年ごとに延長され、最大刑期は5年だった。また、スーチーを失ったNLDは、アウンシュエ以下元軍人の古参党員が主導権を握ったが、せいぜい彼らは「無能な管理人」のようで、「点滴で党を生き延びさせている程度」の働きしかできず、党勢は低迷した。
しかし、それでもスーチーの威光は衰えず、自宅軟禁下にあっても、世界中から数々の栄誉や学位を与えられ、2007年のサフラン革命の際には、僧侶のデモ隊がスーチーの自宅前で読経を始め、スーチーが玄関の門を開け、5分ほど僧侶に対して立礼すると、この様子が海外メディアやインターネットに流れ、デモが一気に拡大するということもあった。ただ、2008年5月に国民投票にかけられ布告された新憲法の第59条(6)には、「外国人の肉親がいる者は大統領になれない」という文言があり、これによりスーチーが大統領になる道は事実上絶たれることとなった。
また、この年、5年の刑期が終了する予定だったが、SPDCは恣意的に刑期を1年延長、さらに、スーチーの身辺に奇妙なことが起きた。同年11月30日、ジョン・イェタウというアメリカ人男性が、手作りの木製ヒレを使ってインヤー湖を泳いで渡り、スーチー宅に侵入。しかし、この時はスーチーに会えず、岸で止められ、モルモン教の聖書を置いて引き返した。翌2009年5月3日、今度、イェタウは、アメリカ大使館近くから排水管を通って、スーチーの自宅の裏口に到着。スーチーはイェタウに帰るように説得したが、結局、二晩泊まり、5月5日、インヤー湖を泳いで渡り、帰っていった。しかし、この件により、スーチーおよび使用人は国家防御法違反で起訴され、禁錮3年の有罪判決を受けた。のちに刑期は半分に減刑されたが、これによってSPDCは、総選挙が終わる2010年11月まで合法的にスーチーを自宅軟禁下に置くことができるようになった。SPDCによる陰謀論が囁かれている。
総選挙への参加を巡ってはNLD内でも意見が割れたが、自宅軟禁下のスーチーは、反対の意思を表明。しかし、「誰も党を所有していない」とも述べ、自分の意思を強制しない意思を明らかにした。結局、2010年3月29日、全国から約160人のNLD代表が集まって投票を行って不参加を決定し、NLDは、政党登録期限の2010年5月6日までに手続きを行わなかったため解党処分となったた。
解放・下院議員に当選
]総選挙の6日後の2010年11月13日、およそ7年半ぶりにスーチーは解放された。同日、午後5時45分、スーチーは自宅の門に現れ、集まった群衆から熱狂的な歓迎を受けた。そして、支持者の1人に渡された花を髪に挿し、「どうか互いに理解し合いましょう。手を取り合って共に歩みましょう。私たちが団結すれば、望むものは必ず手に入るのです」と演説すると、群衆はビルマ国歌を即興で斉唱し、スーチーの帰還を祝った。しかし、この解放は、世界中から敬愛される人権活動家から、あるゆる方面から批判に晒される政治家への転身の第一歩でもあった。

2011年8月19日、アウンサン将軍の肖像画が掲げられた部屋でスーチーとテインセイン大統領との会談が実現し、国家の発展のために協力し合うことで合意。この席でテインセインは、NLDの政党再登録と、2012年に予定されていた補欠選挙にスーチーが出馬することを勧めたとされる。この会談を機に、テインセインの改革が一気に加速、政治犯の釈放、表現・報道の自由拡大、NLDの政党再登録、住民の反対の声が強かった中国との共同事業・ミッソンダム建設計画の凍結、各種経済改革などそのスピードは国内外の関係者を驚かせた。スーチーもテインセインの改革に非常に協力的で、かつての対ミャンマー経済制裁への賛同の信念も放棄して、諸外国や多国籍企業にミャンマーへの投資を呼びかけた。テインセインが、欧米諸国との関係を改善するためにスーチーを政権に取りこむ必要があった一方、スーチーも、最大の目標である大統領になるためには、憲法を改正しなければならず、テインセイン政権および国軍との協力は不可欠だった。欧米の高官の中には、国軍幹部を戦争犯罪の罪で国際刑事裁判所(ICC)に起訴しようと主張する者もいたが、スーチーが強硬に反対して、実現しなかったのだという。
同年11月、ヒラリー・クリントンがアメリカの国務長官として56年ぶりに訪緬、12月1日にはスーチーとの初会談が実現した。その席でスーチーは、補欠選挙に出馬する意思を明らかにし、ヒラリーは「攻撃される覚悟をしなさい」とアドバイスを送った。そして、2012年4月1日に実施された補欠選挙に、スーチーはヤンゴン地方域カウム郡区から立候補し、99%の得票を得て下院(人民代表院)で当選を果たし、NLD自体も上下両院で43人が当選するという大勝を収めた。議員就任時の宣誓の際、スーチーは、宣誓文の文言の「憲法を護持する」を「憲法を尊重する」に変更することを要求し、政府と少し揉めたが、国民から批判を受けたこともあり、結局、元の宣誓文を受け入れた。
同年5月~6月にはタイ、スイス、ノルウェー、イギリスなどを外遊で訪れ、どこでも熱烈な歓迎を受けた。ノルウェーでは21年前に受賞したノーベル平和賞を受与され、イギリスではオックスフォード大学名誉学位を受与され、さらに、イギリス議会両院で、国家元首以外の人物として、外国人女性として、そしてアジア人として初めて演説する栄誉を与えられた。しかし、訪問先で6月3日にラカイン州で起きたラカイン族とロヒンギャとの間でコミュニティ紛争についてコメントを求められる度、曖昧かつ慎重な受け答えに終始したことにより、批判を浴びた。9月16日から10月4日にかけては、40年ぶりに訪米し、オバマ大統領とクリントン国務長官と会談し、アメリカ議会からもっとも権威のある勲章アメリカ議会名誉黄金勲章を授与された。
また、2013年、ザガイン地方域のレパダウン銅山で住民の反対運動が起きた際、スーチーは調査委員会の委員長に任命され、現地に派遣されて報告書を作成した。住民は当然、スーチーがミッソンダムと同じように銅山を閉鎖してくれるものと期待していたが、報告書では、「中国合弁企業との採掘契約の履行が、採掘作業の停止を求める村民の要求を上回っている」と述べられ、負傷者を出した警察の弾圧についても軽微に批判するのみで、住民の大きな怒りを買った。
一方、テインセインが憲法改正に消極的だったことなどから、当初良好だった2人の関係は次第に冷え切っていき、代わりに下院議長のトゥラ・シュエマンと緊密な関係を築いた。トゥラ・シュエマンは大統領になる野心を持っていると言われた人物で、NLD政権発足のあかつきには、憲法上大統領になれないスーチーの代わりに大統領に就任する算段だったとされる。トゥラ・シュエマンは議会制度にも連邦団結発展党(USDP)・国軍の人間関係にもよく通じていなかったスーチーをよく助けたのだという。しかし、このようなトゥラ・シュエマンの裏切り行為は、国軍上層部の怒りを買い、2015年8月23日、USDP党首職を解任され、実権を失った。
そして、2015年11月8日に実施された総選挙。自宅軟禁からの解放後、スーチーやNLDがやや評判を落としていたことから、、NLDはさほど議席を伸ばせないと予測する者もいたが、蓋を開けてみれば、NLDは連邦議会の改選議席の79.4%(民族代表院135議席、人民代表院255議席)を獲得する地滑り的勝利を収め、USDPは惨敗(民族代表院11議席、人民代表院30議席)したのだった。
NLD政権成立・国家顧問就任
]選挙には勝利したが、NLD関係者・支持者が恐れたのは選挙結果を反故にした1990年選挙の再来だった。しかし、スーチーは12月2日にテインセイン、ミン・アウン・フラインと、12月4日にタンシュエと会談。その後、タンシュエが「スーチーが将来の国のリーダーになることは間違いない」 と述べたと報じられ、スムーズな政権委譲が実現した。
次に、誰が大統領になるかだったが、彼はスーチーの高校の1年後輩で、モン族の血を引き、高名な詩人を父に持ち、ロンドン大学でコンピューター・サイエンスの学位を取って財務官僚として働いたことがある、ティンチョーが選ばれた。当時はドーキンチー財団の幹部で、人望は厚かったが、2015年の選挙にも出馬しておらず、国民の間ではほとんど無名。しかし、スーチーには忠実な人物だった。
そして、スーチーだったが、投開票の日の3日前、11月5日に自宅の庭に世界中のジャーナリストを招いて開いた記者会見の場で、彼女は「もしもNLDが勝利すれば、どんな手段を使っても自分が統治する」と主張した。そして、あるフランス人ジャーナリストが、「大統領でなければ、それは違憲になるのではないか?」と質問すると、スーチーは「憲法には大統領の上に立つ者について何も書かれていません」と答えた。さらに「首相になるつもりか?」の質問には、「誰が私が首相になると言ったのですか?私は既に大統領の上に立つと言いました。既に計画を立てています」「憲法のような些細な障害を乗り越えられない理由が理解できません…憲法が『馬鹿げている』かどうか知りませんが、これは実に馬鹿げた憲法です」と答えたのである。
現場に居合わせた記者たちは煙に包まれていたようだったが、党の法律顧問たちのアドバイスを受けてスーチーが出した答えは、「国家顧問」というポストを創設し、自分がその地位に就いて、実質、国家の最高権力者になることだった。これは憲法の規定を完全に骨抜きにする行為であり、民主主義を無視していると国内外から大きな批判を浴び、USDPの議員や軍人議員はこの案に反対したが、NLDが圧倒的多数を占める議会で賛成多数で可決された。スーチーは他にも、外務大臣、大統領府大臣、教育大臣、電力・エネルギー大臣を兼任していた。
1947年の選挙のときです。ミャンマーの独立を期して選挙が実施されたとき, 父がいった簡潔明瞭な言葉があります。この国を慈愛と誠実さでもって統治す る。国家を慈愛と誠実さでもって統治するという意味は、国民に対して慈愛を 注ぐ、国家に対して誠実であり続けるということです。これはとても単純で、 いかなる政府であれ、国民を尊重するいかなる政府であれ、なすべき約束です。 私たちもこの言葉どおりにやっていきたいと思います。国民に対して慈愛を注ぎます。国家に対して誠実であり続けます。このふたつさえできれば、私たちの国がうまくいくことは間違いありません。 — アウンサンスーチー(新年の挨拶 2016年4月18日)
こうして、国内外から大きな期待を背負って誕生した「事実上のアウンサンスーチー政権」だが、そのパフォーマンスは芳しくなく、経済は停滞し、言論・報道の自由の後退し、鳴り物入りで始めた連邦和平会議 - 21世紀パンロンも失敗に終わった。また、細かいことにも口を出す、スーチーのやり方は行政の停滞と反感を招いたとされる。極めつけは、2017年8月25日に起きたロヒンギャ危機で、国軍の掃討作戦により約70万人のロヒンギャがバングラデシュに逃れるという未曽有の流出劇が生じた。スーチーはそのような激烈な掃討作戦を実行することを事前に知らされておらず、かなり憤慨していたと伝えられる。しかし、9月19日にスーチーがネピドーで行った演説は、「ラカイン州のムスリムの大多数がこの大量脱出に加わっていないことは、あまり知られていない」「国全体を考えていただきたい。小さな被害地域だけを考えるのではなく、国全体を見ていただきたい」「他者にも私たちの視点を理解してもらうための寛容さと勇気も必要だ」などと事件の詳細に触れず、国軍批判もしない内容だった。これによりスーチーに対する国際的批判が高まり、ノーベル平和賞剥奪運動が巻き起こり、アムネスティ・インターナショナルの良心の大使賞など数々の名誉が剥奪された。そして、2019年11月11日、ミャンマーに対して起こされたジェノサイド規定違反のハーグ国際司法裁判所(ICJ)の場で、スーチーがあらためてジェノサイドを否定したことにより、彼女の国際的名声は完全に失墜した。ただこれとは逆に、ミャンマー国内では、ロヒンギャに嫌悪感を持つ多くの国民がスーチーと国軍を支持した。
そして、欧米諸国の支持を失ったスーチーは中国に接近。2020年1月、習近平総書記が、中国共産党総書記として20年ぶりに訪緬し、「ラカイン州と中国雲南省を結ぶ中国・ミャンマー経済回廊(CMEC)構想(鉄道、高速道路)の推進」「ラカイン州チャウピューでの経済特区(SEZ)と深海港の建設」「シャン州ムセと瑞麗における国境経済協力圏の開発」を含む33の覚書(MOU)を締結した。その際、スーチーは「言うまでもないが、隣国としては世界が終わるまで(中国に)足並みをそろえる以外にない」と述べ、中国への信頼を明らかにした。しかし、伝統的に国軍の中国にたいする警戒心は相当なもので、テインセイン政権下では、雲南省とチャウピューを結ぶ鉄道・ 道路建設計画に反対したり、中国資本が入ったミッソンダム建設計画を白紙撤回しており、スーチーの中国への接近は、彼らの目には危ういものに映ったに違いない。
また、派手な外交の裏で足元では国軍との関係が悪化していた。NLD政権は、内務省総務局(General Administration Department:GAD)という地域住民の監視、土地の管理や徴税、住民登録、地域の苦情処理という業務を担当する行政組織を内務省管轄下から大統領直轄下に移動させた。これは国の隅々に張り巡らした、言わば国軍の血脈を奪う行為に等しく、国軍には絶対に受け入れられないことだった。また、NLD政権は、宝石法という法律を改正して取引の透明化を図ったり、国軍との親密な関係にあるとされるカレン国境警備隊(現・カレン民族軍)領土内の違法産業を取り締まろうとしたり、国軍の利権に直接メスを入れ始めた。さらに、スーチーは、ミンアウンフラインによる国防治安評議会(NDSC)開催の再三の要求に、国軍派が過半を占める会議の構成を嫌って1度も応じなかっず、USDP・国軍との関係は冷え切っていった。
軍事クーデターにより拘束
]NLD政権の低調なパフォーマンスにより、2020年の総選挙は苦戦は予想されていたが、いざ蓋を開けてみると、総議席数が減ったのにもかかわらず、NLDは連邦議会の改選議席の83.2%(民族代表院138議席、人民代表院258議席)を獲得する大勝を果たし、対照的にUSDPはわずか33議席(民族代表院7議席、人民代表院26議席)の大敗を喫した。しかし、USDPおよび国軍はこの結果に対し、有権者名簿に大きな不正があったと主張。2021年1月30日、あらためてNLD政権に対して選挙管理委員会の交代・議会召集の延期・票の再集計を要求したが、政権はこれを黙殺した。
すると、2021年2月1日未明、国軍は、スーチー、ウィンミン大統領、その他NLD幹部、NLD出身の地方政府トップら45人以上の身柄を拘束。国軍総司令官のミン・アウン・フラインに立法、行政、司法の三権が委譲され、国家行政評議会(SAC)が設立された。軍事クーデターだった。若者を中心に激しい抗議運動が起きたが、武力により鎮圧され、拘束を逃れたNLD党員を中心に国民統一政府(NUG)が設立され、本人不在のまま、スーチーが国家顧問に就任した。NUGは各地で国民防衛隊(PDF)を組織し、SACに対して宣戦布告を宣言。各少数民族武装勢力もこれに呼応し、内戦が激化していった。
拘束されたスーチーは、不正輸入罪、電気通信法違反、収賄罪など19件の罪で起訴され、計33年の懲役・禁錮刑を課せられ、高齢であることを考えれば、実質、終身刑であった。当初、スーチーはネピドーの刑務所の独房に収監されていたが、2024年4月に別の場所に移送されたと報じられた。その後の状況は不明だが、裁判の法廷や面会の際に「国民は団結し、話し合いにより問題を解決してほしい」「世界人権宣言の最後の条文に自分のメッセージがある」と述べたとも伝えられている。
2025年9月5日、次男のキム・アリスが、スーチーの心臓病が悪化しているとして、解放を訴えたが、国軍側はこれを否定している。
思想
]仏教
]母親のキンチーから仏教徒としての厳格な教育を受け、仏教に非常に造詣が深く、その演説・論考にも仏教倫理が頻繁に顔を覗かせる。ただ、初期の著書・『ビルマとインド: 植民地主義下の知的生活のいくつかの様相』では、「ミャンマーの発展が遅れたのは、仏教を含む伝統文化に固執して、優れた西洋文化を取り入れなかったから」と述べ、仏教に批判的な一面もあった。政界デビューした後は、SLORC/SPDCから、外国暮らしが長く、外国人と結婚している点を激しく攻撃されたことにより、仏教徒が大多数を占める国民の支持を得るため、スーチーは、仏教色をいっそう強めていき、1988年~1989年の選挙運動中は、遊説の先々で高僧に敬意を表して祝福を受け、説法に耳を傾け、支持者とともに五戒を修行し、時には僧院の建設作業を手伝い、演説を仏教的な言葉で締めくくった。
スーチーが師事したのは、カレン州パアン近郊のターマニャ丘にある僧院に住むタマーニャ・サヤドー(別名:ウー・ヴィナヤ)で、彼自身もスーチーの支持者で、SLORC/SPDCからの称号の受与を拒否し続けた人物だった。最初の自宅軟禁から解放された直後、スーチーはサヤドーの元を訪れ、その様子を『ビルマからの手紙』に綴っている。
アラン・クレメンツに「ダライ・ラマ14世、ティク・ナット・ハンなど仏教徒の指導者は、なぜ政治的変化をもたらせないのか?」と質問された際、スーチーはキリスト教の教会の組織力をその理由に挙げ、「仏教の僧院にはそのようなものはない」と答えているが、歴史的にミャンマーの政治において僧侶が果たしてきた大きな役割を考えれば、これは的を得ているとは言えない。
2014年、スーチーはネパール訪問前に、「ブッダはインド生まれか、ネパール生まれか」という論争に巻き込まれないために、「ブッダはインド亜大陸の王子(prince of the Indian sub-continent)だ」と述べた。「インド亜大陸」はインドもネパールも含む概念なので、うまく論争を避けた格好だったが、なぜかミャンマー国内では「スーチーがブッダのことを『所詮インドの王子(ビルマ語: သာမန်ပုဂ္ဂိုလ်)』と言った」と曲解され、総選挙の前年だったこともあり、反スーチーキャンペーンに利用された。
政治思想
]スーチーの政治思想は、仏教を中核とした民主主義の実現だった。独特だったのは統治者だけではなく、国民1人ひとりにもその「道徳的義務」を求めた点で、国民は精神を解放して、教育を受け、民主主義に目覚めるよう説いた。そして、団結・責任・規律をもってすれば、必ず道徳的民主主義が実現するという信念を持っていた。
経済思想
]スーチーは、「民主主義なくして経済成長なし」という信念の持ち主で、1990年代~2010年にかけて、諸外国にミャンマーに対する経済制裁を訴えた。しかしこれは国民生活に打撃を与えたものの、SLORC/SPDCにはさほど打撃を与えることができず、失敗と評されることになった。スーチー自身ものちに考えを改め、諸外国や多国籍企業にミャンマーへの投資を呼びかけるようになった。
国軍との関係
]長年、国軍と対立し続けてきたスーチーだが、父アウンサンを「国軍の父」と崇拝し、その子である国軍に対する愛着を隠そうとしなかった。実際、両者には多くの共通点があった。
少数民族との関係
]従来、スーチーは少数民族問題に関心が薄く、造詣も深くなかった。少数民族に対する態度はしばし「ビルマ族中心主義」的とも評され、、連邦和平会議 - 21世紀パンロンの失敗からもわかるとおり、少数民族との間で信頼関係を築くことはできなかった。2017年のロヒンギャ危機の際、ロヒンギャ側の立たなかったことにより、その国際的名声は失墜した。
フェミニズム
]アラン・クレメンツの「あなたはフェミニストですか?」という質問に対して、スーチーは明白に「いいえ、そうは思いません」と答え、次のように述べている。
ビルマでは男性も権利がありません..世界の他の多くの地域でと同様、ビルでも男性は特権を与えられています。しかし、現在、男性も女性と同様に、不正と抑圧の攻撃にさらされています。ですから、まずみんなに基本的な権利を与えましょう。男性が投獄されないようにしましょう。 それは、女性は投獄されていないということではありません。しかし、たぶん、男性の政治囚の数は、女性の政治囚の数の100倍あるいは1000倍にものぼるでしょう。 それで今の段階では、ビルマの女性を男性がかかわっている運動と別個のものと考えることはとてもできません。でも女性の権利の問題は、私たちが民主主義を達成し、誰もが基本的な政治上の権利を享受するとき、必ず出てくると思います。 — アウンサンスーチー
また、1995年10月7日の演説では以下のように述べている。
どうすれば妻たちに、夫の民主化運動を妨げないよう説得できるでしょうか?...もっと思いやりを持つべきだと思います。私たち女性は、たいてい子供を育てなければなりません。もし夫の心に恐怖心を植えつけたら、子供をどうやって育てられるというのでしょう?恐怖の中で育てられた子供は、どうやって未来に立ち向かえるというのでしょう?女性は自立するよう努めるべきです。たとえ夫が刑務所に入っていても、一人で家族を支えるべきです。もしも妻が、夫が刑務所に入るのではないかと心配しているなら、それはその女性が夫に頼りすぎているということです。もっと自立するよう努めてください。 — アウンサンスーチー
過去には、1980年代にグリーナム・コモン空軍基地に核兵器が置かれていることに抗議する、グリーナムコモン女性平和キャンプが盛り上がった際、「彼女たちは故郷の家族のもとへ帰り、妻として、母親としての役割を全うした方が良い」と述べたのだという。
また、2015年に成立したNLD政権は、21人の閣僚全員が男性で、平均年齢は当時のスーチーの年齢の71歳を超え、ミャンマー史上もっとも高齢な内閣だった。結局、2020年まで続いたNLD政権でポストを与えられた女性は、たった2人。2017年11月12日にマニラで開催されたASEAN投資ビジネスサミットで、スーチーは女性のエンパワーメントに言及したが、会議で話題となった、育児、育児休暇、職場における医療に関する政府の規制などについては終始懐疑的な姿勢を見せ、他の参加者が女性のビジネスや政治への参画拡大を主張する中、スーチーは「まずは、女性たちが権利を求める声の高まりに責任を持つ勇気を持っていることを示すことが重要だ」と述べ、女性参加者たちに自身への平和基金への寄付を求め、周囲を驚かせたのだという。
影響を受けた人物
]アウンサン
]スーチーが最大の影響を受けた人物は、もちろん、父親のアウンサンである。母親のキンチーは常にアウンサンが奉じた価値観を称賛し、尊敬するようにスーチーに教えた。その後、スーチーは、1985年10月~翌年7月までの約9か月間、京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、アウンサンについての歴史研究を進め、「私の父、アウンサン」「『ボ』のほんとうの意味」という論稿を著している。その際、スーチーは、自分は父親に似ていることに気づいたのだという。
父の生涯について研究を始めたとき、私たちのあいだにある類似点に気づきました。私たちの考え方が似ていることに驚きました。私のなかのある種の考え方・感じ方は、自分のものだと思っていました。ところがその後、父もすでにそれらをもっていたことを発見しました。 — アウンサンスーチー
そして、8888民主化運動の最中、8月26日にシュエダゴン・パゴダで行った演説によって、スーチーは父親の後継者として政界デビューを果たした。その後もスーチーは演説・評論の中でたびたびアウンサンに触れている。
マハトマ・ガンディー
]スーチーおよびNLDが採った非暴力不服従の方針は、マハトマ・ガンディーの影響を受けたものである。前述したとおり、1960年~1964年にインドに滞在する間、スーチーはガンディーの思想に感化され、初期の著書・『ビルマとインド: 植民地主義下の知的生活のいくつかの様相』でもガンディーの思想の柔軟性を評価している。1988年から~1989年の間の選挙期間中、スーチーはガンディーとマーティン・ルーサー・キングの言葉をさかんに引用して、不当な権力・命令には従わないように国民に訴え、1989年7月には2人の例に倣って市民的不服従運動を呼びかけ、1989年7月20日に自宅軟禁下に置かれた後は、ガンディーに倣ってハンガーストライキを実施したが、いずれも失敗に終わった。
しかし、スーチーが非暴力不服従を闘争方針として採用したのは「一部の人が信じているような道徳的な理由ではなく、実践的、政治的理由からだった」と明言しており、一定の範囲内での軍事力の行使も認め、8888民主化運動に参加した若者の一部が武器を手に取ったことについても否定しなかった。また、自身がガンディー主義者であることも否定している。
今日、私たちは、目的を達成するために非暴力的な政治手段を用いることができます。選択の余地があり、どちらも同程度の成功の可能性があると感じる場合、明らかに非暴力的な方法を選ぶべきです。というのは、それは傷つく人々がより少ないことを意味するからです。 — アウンサンスーチー
マーティン・ルーサー・キング
]前述したとおり、スーチーは、1969年から1971年の間、ニューヨークの国連事務局に務めており、その間、マーティン・ルーサー・キングに感化されたのだという。1988年から1989年の間の選挙期間中、スーチーは、ガンディーとともにマーティン・ルーサー・キングの言葉をさかんに引用したが、逆に言えばそれだけで、さほど強い影響を受けたわけではないようである。
ネルソン・マンデラ
]オックスフォード大学在学中、スーチーは南アフリカ産製品ボイコット運動に参加した。この経験が、のちのミャンマーに対する経済制裁を諸外国に訴える姿勢に繋がった。また、ネルソン・マンデラが非暴力から暴力的手段を用いる路線に転向したことについても、以下のように述べ、無碍に否定はしなかった。
ネルソン・マンデラは非暴力に、それが可能になったとき再び転換しました。もちろんそれ以前は暴力を使いました。非暴力では成果が上がらず、またそれは強さよりも弱さとみなされていたからです。その当時と今とでは状況が違っていました。ネルソン・マンデラと他の南アフリカの人たちが非暴力的な方法を初めて試していたころ、世界は東と西とにわかれてイデオロギー闘争に血道を上げていました。人々は人権にさほど関心をもっていませんでした。野蛮な世の中で、ネルソン・マンデラと他の南アフリカの人たちは、効果的で、戦いを前進させる手段を選ばなければならないと感じました。 — アウンサンスーチー
元国連事務総長・ウ・タントの孫・タンミンウーは、「1990年代は南アフリカ共和国のアパルトヘイトに代わる標的として、2000年代はネオコンの標的、2010年代はアラブの春のリベンジとしてミャンマーが利用された」と述べている。
ヴァーツラフ・ハヴェル
]ヴァーツラフ・ハヴェルは、スーチーをノーベル平和賞に推薦した人物で、スーチーは彼の著作『力なき者たちの力』にたびたび言及しており、人々のエンパワーメントを訴えた。
力は内から来ると思います。自分のしていることへの確信があり、それが正しいという信念に支えられているのなら、そのことを自体が力となります。何かを成し遂げようとしているとき、この力はとても重要です。 — アウンサンスーチー
日本との関係
]前述したように、スーチーは1985年10月から翌年7月までの約9か月間、京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として、キムを伴って来日し、父アウンサンの軌跡を追っている。
その後、8888民主化運動と1991年のノーベル平和賞受賞により、スーチーは日本でも名の知られた人物となり、テレビや新聞では特集が組まれ、毎日新聞は1990年代を通じてスーチーのコラム『ビルマからの手紙』を連載し、のちに書籍化された。他にも『自由・自ら綴った祖国愛の記録』『アウンサンスーチー演説集』などの著作が邦訳され、『アウンサンスーチー 戦う孔雀』というタイトルで漫画化もされた。『ビルマからの手紙』には日本で世話になった大津夫妻との思い出、自分の元を訪れてきた大阪外国語大学ビルマ語学科の2人の女子学生のことなども綴られている。一方、当時スーチーは対ミャンマー経済制裁を支持していたことから、SLORC/SPDCと関与し続ける日本政府・日本企業批判も記されており、日本の保守論壇にハレーションを引き起こした。
ただ、元在緬日本大使の山口洋一によると、日本には一目置いており、決して反日思想の持ち主ではなかったのだという。『新ビルマからの手紙』には東日本大震災で被災した日本人に対する激励のメッセージも収録されている。2013年に宋永吉仁川広域市市長と会談した際、宋市長が「ドイツとは違い、日本は慰安婦問題などを認めていない。関心を持ってほしい」と述べたのに対し、スーチーは「過ちを正そうとする姿勢が重要」「日本の帝国主義に立ち向かった父は『日本人個人を恨んではいけない。誰にでも長所・短所があるため短所ばかりをみて恨んではいけない』と言っていた」などと述べており、市長に一定の理解を求めている。

政治家になった後は、2013年、2016年、2018年、2019年の4回来日している。
2013年4月13年から同月19日までの来日は実に27年ぶりに来日で、安倍晋三首相など日本政府・経済界の要人との会談、大津夫妻など京都時代の旧友との再会、京都大学・龍谷大学での講演、在日ミャンマー人との交流などを行った。
2016年11月1日から同月5日までの来日では、安倍首相、岸田文雄外相との会談、天皇・皇后と会談。安倍首相との夕食会では、当時、安倍首相が女性活躍を推進していたこともあり、スーチーが「ミャンマーの方が女性の社会進出が進んでいる」ミャンマーでは「医大に入るのは女性ばかり」「外務省は7割が女性職員」と力説する一幕があった。
2018年10月、日本・メコン首脳会議に出席するために来日。
2019年10月、22日に行われた即位礼正殿の儀に参列するために来日した。
逸話・評価
]- イギリス大使のゴア・ブースが、国連事務総長・ウ・タントの葬儀の際、国軍がデモ隊に発砲して何人かが犠牲になった事件の黒幕について尋ねたところ、スーチーは「シャン族によって企てられたものであり、成功の見込みはなく、人命を失うだけで許されるものではない」と、ブースに言わせれば「典型的なビルマ族の反シャン族の立場」と取ったのだという。
- 8888民主化運動から1990年総選挙の間、NLD支持者に元ビルマ共産党(CPB)党員やそのシンパが多く、当時元ビルマ共産党中央委員会のメンバーだったタキン・ティンミャ(Thakin Tin Mya)がスーチーの自宅に事務所を持ち、彼女の顧問を務めていたことから、スーチーも共産主義者ではないかと激しく非難された。これに対してスーチーは、1988年9月12日付英国紙インデペンデントへの寄稿文で「私がさまざまな経歴の多くのベテラン政治家から助言を得ているのは事実です。けれどもそれは、これらの人々が将来の政治的利益への期待や個人的利得とはまったく無関係に、民主主義の大義のために働いているとの前提にもとづいてのことです。私自身は、国民の福祉よりも個々人の政治的信条やイデオロギーを優先することには強く反対しています」と反論している。
- かつてスーチーは自宅前の道路に人を集めて毎週末演説集会を開いていたが、ある日、日本人の観光客のグループが演説を見物していると、それを見とめたスーチーは、「(観光客が落とすお金が軍事政権を潤すから)どうかミャンマーへはもう来ないでください。日本のお友だちにもミャンマーに来ないように伝えてください」と言い放ったのだという。
- 1988年の軍事クーデター後、日本のミャンマーに対する経済協力は大幅に縮小していたが、日本政府が看護大学建設の無償支援を行おうとした際、スーチーは「看護師学校に行けるのは軍人の奥さんや娘さんばかりだから」という理由で反対したのだという。
- 1997年、日本政府がミャンマーのASEAN加盟について賛意を示すと、スーチーは「日本はなんということをしたのか。橋本首相(当時)の決定を、私は公開の場で批判しますよ」と烈火のごとく怒ったのだという。また1998年に日本政府がヤンゴン空港への円借款を一部再開した時、当時ミャンマー大使だった山口洋一が「人道上の理由です」と理由を説明すると、スーチーは「軍政に援助するなんて、私たちを殺す気ですか」と取り付くしまがなかったのだという。
- 2011年に国軍とカチン独立軍(KIA)との間の停戦合意が破棄され、戦闘が勃発し、国軍がKIAの拠点に激しい空爆を加え多数の死傷者を出していた。この際、カチン統一民主党の女性議員がスーチーに問題解決を求めたが、「カチン州の和平を促す発言をスーチーに求めたが、彼女は何も言わず沈黙したままだった」「ぜひ停戦のメッセージを世界に向けて発信してほしいとお願いしたが、スーチーは会議室で私と目を合わそうとしなかった」「世界21カ国に移住しているカチン族からも同様の手紙をスーチーに送ったが、スーチーからの反応はなかった」のだという。ヒューマン・ライツ・ウォッチは2013年の年次報告で「NLDは(何も発言しないことで)カチン州の国軍による戦争犯罪を推進している」「スーチーは少数民族のために立ち上がらず、失望させた」と厳しく批判している。
- スーチーのスタッフは無能で有名だった。2012年5月~6月にスーチーがタイを訪問した際、誰もタイ外務省へ通知していなかった。また、スーチーは、カレン族の難民が多く住むターク県にあるメラ難民キャンプを訪問する予定だったが、この地域は立入禁止区域だったのにもかかわらず、事前に許可を得ていなかった。ターク県知事にも通知が行っていらず、県知事はメディアから情報を得ている始末だった。さらに、スーチーは世界経済フォーラムで講演する予定だったが、テインセイン大統領も出席を予定していたのにもかかわらず、彼への通知を怠っていた。会議ではスーチーが最上位に位置づけられていたため、大統領の権威を守るため、テインセインは出席をキャンセルせざるをえなかった。2013年11月、モンゴル大統領・ツァヒアギーン・エルベグドルジが訪緬した際、スーチーの事務所に手紙やメールを送っても返事がなく、苛立ったエルベグドルジ自らスーチーの事務所に電話をかけ、「私はモンゴル大統領です」と告げたところ、スタッフから「履歴書を送ってください」と言われた。2012年後半からティンマーアウン(Tin Mar Aung)というラカイン族の女性を個人秘書に雇ったが、今度は彼女がスーチーのアクセスを独占するようになり、多くの敵を作った。
- 2012年6月に訪英した際、イギリス政府の費用でホテルに宿泊していたのにもかかわらず、スーチーは、同行したスタッフにホテルのミニバーやランドリーを使わないよう厳命した。おかげでスタッフたちは、ホテルの部屋で自分で下着を洗濯する羽目になった。
- 旧軍事政権との繋がりの深い政商から、NLDが金を受け取っていたことが判明している。彼ら政商は軍事政権の取り巻きの立場を利用して富を築いており、国内でも悪評が高い。内訳は教育・医療対策のために実業家テーザから8万2,353ドル、チョーウィンから15万8,824ドルである。テーザは武器密輸の疑い、チョーウィンは南部カレン州で起きた強制土地収用に関係している。同じくNLDに献金していたゾーゾーが所有する財閥マックス・ミャンマーは、2013年1月現在も欧米からの制裁を受けている。イラワジ誌によれば、NLDの行動を擁護し、「軍事政権の取り巻きだったとされる人々は、NLDなどの社会活動を支援してきた。そのどこが悪いのか?目的もなく金を使う代わりに、彼らは支援するべきことを支援した。それはいいことだ」と語った。
- 国際人権団体ヒューマン・ライツ・ウオッチ(本部ニューヨーク)は2013年版の年次報告において、アウンサンスーチーについて「少数民族の人権保護に消極的で、失望している」との批判を掲載した。アラブ系メディアのアルジャジーラも2015年、イスラム系少数民族のロヒンギャの難民問題について、多数派である仏教徒の支持を得るために迫害を黙殺しているとの報道した。
- 2013年1月、BBCラジオの人気番組『デザートアイランドディスク』に出演。無人島に持っていきたい音楽として、ビートルズ、トム・ジョーンズ、モーツァルトの「魔笛」序曲、ドヴォルザークの「新世界」交響曲第1楽章、ヨハン・パッヘルベルの「カノン」などを選んだ。
- 2013年にBBCのパキスタン系英国人キャスター・ミシャル・フサインからロヒンギャ問題について見解を問われ、「イスラム教徒と仏教徒の両サイドがお互いに恐怖心を持っていることに起因している。恐怖心はイスラム教徒だけが抱いているわけではない」「軍事政権によって暴力にさらされ、国を追われてきたのはイスラム教徒だけではない。それよりもより多くの仏教徒も暴力にさらされ、国を追われている」と答えた。インタビュー後、スーチーは「よりによってイスラム教徒なんかからあれこれつつかれるなんて、誰からも聞かされていなかったわ」と周囲に当たり散らしたとされ、この事実は2016年に出版されたピーター・ポパムの評伝『レディと将軍たち』において明らかにされた。
- 2014年10月23日、当時、NLD広報官だったティンリーウーが、ある文学イベントで「ブッダはビルマ族でもシャン族でもカレン族でもない。だから極端な国家主義者になりたいなら、そしてそれほどまでに自分の民族を守りたいのなら、仏教を信じてはいけない」と述べて、超国家主義仏教徒組織・マバタを批判。この発言により、刑法第295(a)条(「宗教感情を害することを意図した故意かつ悪意のある行為」の禁止)と、第298条(「宗教感情を傷つけることを意図した言葉を発すること」の禁止)違反の罪で2年の重労働刑を課せられた。この判決はアムネスティ・インターナショナルにも批判されたが、スーチーは彼を擁護するどころか、広報官の職から解任し、党から追放した。
- NLDが政権を獲った2015年の総選挙において、8888民主化運動をともに戦い、2015年の時点でも国民的人気の高かった88年世代と言われる人々をNLDは一切公認しなかった。そのうちの1人、コーコージーは「2015年の前回総選挙で、NLDは私たち元学生活動家に立候補を打診しながら、説明もなく切り捨てた。スーチー氏とはその後、行事に同席した際などを除き一度しか会っていない」と述べている。またコーコージーは、かつてスーチーから「88世代は森を切り開いた木こりで、その役割は終わった。私は皆さんの切り開いた道を歩む」と言われたのだという
- 2015年総選挙の前に、ワシントン・ポストの記者に「(自身が大統領の上に立つというのなら)首脳会談はどうするのか?」と問われ、「彼(大統領)は私の隣に座ることができます」と答えた。
- 2015年総選挙勝利後、組閣前にNLD報道官ニャンウィンが国会議長の人事をメディアにリークすると、スーチーは激怒。NLDの声明として「情報漏洩は許さない。ドー・アウンサンスーチーだけが(政策や政権移行についてメディアに)語る権利がある」と発表した。
- ある上級援助関係者は「会議では、彼女は相手を軽蔑し、独裁的で、時には見下すような態度を取る」「(政府は)あまりにも中央集権化され、彼女に対する完全な恐怖感がある」と述べている。
- 2017年にBBCのインタビューで、ロヒンギャ問題について見解を問われ、「それについてはすでに2013年に同じ質問を受けて回答している。質問に答えたのに何も答えなかったかのように言われるのは、単に人々が求めているような、どちらかの陣営を強く非難するようなコメントをしなかったからだ。しかし、私はマーガレット・サッチャーでもなければ、マザー・テレサでもない。政治家だ」と答えた。
- 2016年にスーチーのムスリムに対する差別的な発言をめぐり、「ノーベル平和賞取り消し」を求める署名キャンペーンがChange.orgで行われ、5万人以上の署名が集まった。ロヒンギャ問題に関しては、2017年にも「ノーベル平和賞取り消し」を求める署名活動が行われており、さらに多くの36万もの署名を集めた。
- 2017年9月にラカイン州のロヒンギャの武装勢力と治安維持部隊の衝突について、ロヒンギャ勢力に対し残忍な方法で鎮圧を図っているとして国際的な非難が集まっている点について、トルコのエルドアン大統領との電話会談中の発言の引用として、「政府はすでに取りうる最善の方法でラカイン州の人々を保護している。非難はテロリストのばらまいたフェイクニュースに基づいており、それらは氷山の一角に過ぎない。政府に対する非難はテロリストを利するものだ」と声明を出した(ミャンマー政府は軍事政権時代から、ロヒンギャを「ベンガル人」と呼び、バングラデシュからの不法移民であるとして自国民として取り扱っておらず、「ラカイン州の人々」にロヒンギャが含まれることについては疑問がある)。一方、13万人近いともされるロヒンギャ難民、彼らが政府が国境地帯に急きょ敷設したとされる地雷で負傷していることについては完全に沈黙した。著しく低下したローマ・カトリック教会の権威の失墜[要出典]
- 2017年のロヒンギャ危機の際は、スーチーは国際社会の激しい非難に晒された。スーチーに捧げる『ウォーク・オン』という曲でグラミー賞を受賞し、日に陰にスーチーを応援し続けていたU2のボノは「マーティン・ルーサー・キングが言ったように、“最大の悲劇は、悪人の圧制や残酷さではなく、善人の沈黙である”」「スーチー氏の沈黙が同意のように見え始めている」と述べて、絶交宣言をした。ボブ・ゲルドフは「彼女はダブリン市民を裏切った。アイルランドの期待を裏切った。彼女に騙された」と、デズモンド・ツツは「ミャンマーの最高地位に就いた代償が沈黙だとすれば、その代償はあまりにも高くついた」と批判した。
- 2017年のロヒンギャ危機の際、ロイター通信のミャンマー人記者が2人、国家機密法違反で懲役7年の刑に処せられた。事件の経緯からみれば警察にはめられたのは明らかで、国内外で批判が高まり、結局、2人は2019年5月に恩赦で釈放されたが、これに対するスーチーの態度は「判決は表現の自由とはまったく関係がなく、国家機密法に関係したものだ」「法の支配にもとづくならば、記者らには控訴し、判決の誤りを指摘する権利がある」と木で鼻をくくった態度に終始。アメリカ国連大使・ニッキー・ヘイリーは「治安部隊によるロヒンギャへの迫害に目をそむけているかと思えば、今度は迫害を取材したロイターの記者2人の実刑を正当化している。信じられない」と激しく非難した。
- 2018年1月、ラカイン州諮問委員会の提言に助言を与える委員会で、ロイター通信のミャンマー人記者2名が逮捕された件について、アメリカの元国連大使・ビル・リチャードソンが問題提起したところ、スーチーは「それはあなたの仕事じゃない」と発言。リチャードソンは委員を辞任した。
- 『アンダー30』という人気ウェブ・トーク番組の司会を務めるティンザーシュンレイイは「活動家や若者の多くは『次は何か』『何が起きるか』『私たちに何ができるか』と考えている。現段階では、スーチー女史は好き放題で、誰も干渉できない。市民団体の声に耳を傾けることもない」「スーチー氏が自ら訴えていた民主主義の本質と違うことを行う以上、応援してきた私は批判者にならざるを得なかった」「不満はあっても『もし彼女がいなくなったら国がダメになる』とみんな思っている」と批判している。
- 2018年5月、丸山市郎がミャンマー大使として赴任した際に、スーチーは丸山に「自分の思いどおりに動く人がやっと大使になった」と発言したのだという。
- 2018年に来日した際、NHKのインタビューを受けたが、その後、スーチーは日本政府に対して「なぜロヒンギャに関する質問ばかりするのか」「なぜ国営メディアなのに批判的な質問ばかりするのか」と不満をぶつけたのだという。
- 2018年8月ヤンゴン大学の学生と教師1000人の前で行ったディスカッションで、スーチーが選んだテーマは、経済でも和平プロセスでも民主主義でもなく、オックスフォード大学で学んだ文学で、小説において重用なのは筋か、あるいは登場人物かというものだった。
- 2019年9月、ヤンゴンのホテルで行われた、アウンサン将軍の生涯を描く映画の制作発表会に出席したスーチーに、何者かが緑のレーザー光線を当てるという事件があった。ミャンマー人記者によると、「(1948年の)独立以来、政府と紛争が続く少数民族との和平交渉が進まず、スーチー政権になってむしろ状況が悪化していることへの不満」の表れなのだという。
- 2019年12月11日にロヒンギャ問題、オランダ・ハーグの国際司法裁判所の法廷に国家顧問兼外務大臣として出廷した際には、西部ラカイン州でロヒンギャの武装集団が政府施設を襲撃したため、軍が掃討作戦を行ったと説明し「一部で不相応な力を行使した」として、無関係の民間人が死傷した可能性を認めたがジェノサイドではないとし、国内の司法問題として国際司法裁判所が審理する問題ではないと主張した。[要出典]
作品
]映画
]- 『ラングーンを越えて』(1995年)- スーチーを演じたのは、アデル・ラッツという著名なデザイナー、女優。映画の冒頭、ヤンゴンで8888民主化運動の騒動に巻き込まれた、パトリシア・アークエット演じる主人公の女性が、スーチー率いるデモ隊と邂逅する。しかし、実際は8888民主化運動の際はスーチーはデモ行進を行っていないので、これは創作である。ただ、ラッツはスーチーのことをあまり知らなかったらしく、スーチー役の依頼があった時の感想を求められた際、「本当に嬉しかったです。彼女は生きていて自宅軟禁状態にあり、85%以上の得票率で大統領に選出されたのですから」と答えた(実際は大統領に選出されたわけではない)。
- 『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』(2011年)- リュック・ベッソン監督、ミシェル・ヨー主演。8888民主化運動から1990年代に軍政から弾圧を受けていた日々にかけてのスーチーを描いている。スーチーがシュエダゴン・パゴダで初めて演説するシーンでは、ミシェル・ヨーは全編ミャンマー語で演じている。スーチーを演じるにあたって、ミシェル・ヨーは2010年に解放されたばかりのスーチーの元を訪れ、一日一緒に過ごしている。ただし、スーチーはこの映画を一度も観たことがないのだという。
音楽
]- 『ロングインタビュー』(1998年) - 井上陽水のアルバムに『九段』収録。スーチーをモチーフにした曲。歌詞に「ビルマのハープバラードのコードオイルカンパニー」というフレーズがある。
- 『ウォーク・オン』(2000年)- U2の2000年のアルバム『オール・ザット・ユー・キャント・リーヴ・ビハインド』収録。スーチーに捧げられている。2002年グラミー賞最優秀レコード賞。
- 『フォー・ザ・レディ』(2004年)- U2、R.E.M.、ポール・マッカートニー、エリック・クラプトンなどが参加したトリビュート・アルバム。ミャンマーからもムンアウンというシンガーソングライターが『血の嵐』という曲を提供している。
- 『アウンサンスーチー 』 - ジェーン・バーキンの2008年のアルバム『冬の子供たち』収録。ジェーンは1999年、在緬フランス大使館で、秘密裏にスーチーに会い、スーチーから民主化運動への支援を依頼されたのだという。
CM
]- 2009年、クライスラーが自宅軟禁中だったスーチーをCMに起用。白いクライスラー300がレンガの壁を突き破り、壁が鳩の群れに変化する様子が映し出され、最後、スーチーの解放を訴えるメッセージで締めくくられる。
主な受賞歴
]出典
- ソウル大学校名誉教育学博士(2013年)
- モナシュ大学名誉法学博士(2013年)
- オーストラリア国立大学名誉文学博士(2013年)
- シドニー大学名誉法学博士(2013年)
- シドニー工科大学名誉博士(2013年)
- ローマ名誉市民(2013年)
- ボローニャ名誉市民(2013年)
- ボローニャ大学名誉哲学博士(2013年)
- 龍谷大学名誉博士(2013年)
- ワルシャワ名誉市民(2013年)
- エリー・ヴィーゼル賞(2012年)- 2018年3月7日、ホロコースト記念博物館が、ロヒンギャ民族浄化に対する不作為を非難し剥奪
- オックスフォード大学名誉私法学博士(2012年)
- パリ市名誉市民(2012年)- 2018年12月、パリ議会は、アウンサンスーチーが指導者としてロヒンギャに対する暴力・虐殺に対応しなかったとして、パリ市名誉市民の称号の取消を決定
- レジオンドヌール勲章(2012年)
- 香港大学名誉法学博士(2012年)
- ヨハネスブルグ大学名誉博士(2010年)
- 心の大使賞(2009年)- 2018年11月12日アムネスティ・インターナショナルがロヒンギャに対する対応に失望したことを理由に取り消し
- アメリカ議会名誉黄金勲章(2008年) - 民間人に与えられるアメリカ最高の勲章。
- ルーヴァン・カトリック大学名誉博士(2006年)
- オロフ・パルメ賞(2005年)
- ダブリン名誉市民(2000年)- ロヒンギャ危機への対応の不誠実さを理由に、2017年に剥奪。
- アメリカ大統領自由勲章(2000年)
- アメリカン大学名誉博士(1997年)
- オックスフォード市より名誉市民権(1997年)- 2017年にロヒンギャ問題に対する取り組みが不足していることを理由に剥奪。同様に、グラスゴー市、ニューカッスル市、エディンバラ市も名誉市民権を剥奪した
- オーストラリア名誉勲章(コンパニオン)(1996年)
- ビクトル・ハラ国際人権賞(1993年)
- ジャワハルラール・ネルー賞(1993年)
- 国際シモン・ボリバル賞(1992年)
- 国際ペンクラブ名誉会員(1991年)
- ノーベル平和賞(1991年)
- サハロフ賞(1991年)- 自宅軟禁から解放後の2013年に賞を受け取った。 2020年9月10日、欧州議会はアウンサンスーチー氏はロヒンギャに対する犯罪行為を容認し行動を怠っているとして受賞者としての活動資格を停止した。サハロフ賞として初めての措置だが、受賞者としては残る。
- トロルフ・ラフト人権賞(1991年)
- オックスフォード大学名誉フェロー(1990年)
- ロンドン大学東洋アフリカ研究学院名誉フェロー(1990年)
脚注
]注釈
]- ^ のちにアメリカ・サンディエゴに移住し、アメリカ合衆国の市民権を取得。スーチーとは折り合いが悪く、スーチーの政治活動に反対している。
- ^ 共学。当時、ミャンマーの保守的な人々は子供を共学の学校に入れるのを嫌がった。この学校に子供を入れたのは、進歩的な考えをする人々だった。ヒンドゥー教徒やムスリムの子供たちもいたのだという。
- ^ 大統領の子供たち、ウー・ヌ首相の子供たち、王族の血を引く子どもたち、外交官の子供たちが、たくさん通っていた。
- ^ アウンサンウーは工学を学ぶためにイギリスに留学し、2人に同行しなかった。
- ^ スーチーは英文学に興味があったが、当時、女性は英文学など専攻するものではないという雰囲気があったのだという。
- ^ 『自由 自ら綴った祖国愛の記録』に「植民地統治下のビルマとインドの知的活動」というタイトルで収録。英語タイトルは「 Burma and India Some Aspects of Intellectual Life under Colonialism」。
- ^ スーチーはタンイーを「緊急時のおばさん」と呼び、家には常にビルマ料理があり、互いにビルマ語で話していた。2人のアパートの部屋は「マンハッタンのビルマ人の家」として知られていた。
- ^ スーチーが愛読していたラドヤード・キップリングの小説の登場人物にちなんで名づけた。
- ^ 2篇とも『自由 自ら綴った祖国愛の記録』(集英社)に、それぞれ『わたしの父、アウンサン』『わたしの祖国、そしてビルマの人々』のタイトルで収録。
- ^ 『自由 自ら綴った祖国愛の記録』に「植民地統治下のビルマとインドの知的活動」というタイトルで収録。
- ^ アウンジーがCPB関係として名指ししたのは、コーユー(Ko YU)、ミンミン(Myint Myint)、キン(Khin)、モートゥー(Moe Thu)、ウィンティン(Win Tin)、ティンシュエ(Tin Shwe)、トゥンティン(Htun Tin)、アウンルイン(Aung Lwin)、チャンエイ(Chan Aye)の8人。またアウンジーは、CPB中央委員会元メンバー・タキン・ティンミャがスーチーの自宅に「秘密事務所」を持ち、「顧問」として活動しているとも主張した。これに対してスーチーは、1988年9月12日付英国紙インデペンデントへの寄稿文で「私がさまざまな経歴の多くのベテラン政治家から助言を得ているのは事実です。けれどもそれは、これらの人々が将来の政治的利益への期待や個人的利得とはまったく無関係に、民主主義の大義のために働いているとの前提にもとづいてのことです。私自身は、国民の福祉よりも個々人の政治的信条やイデオロギーを優先することには強く反対しています」と反論している。ジャーナリストのバーティル・リントナーは、タキン・ティンミャーの役割は精神的サポートに限られており、名指しされた8人のうち、CPBと関係あるのはコーユーとチャンエイの2人だけだと主張している。コーユーは1960年まで赤旗共産党に所属しており、チャンエイは1948年から1957年に逮捕されるまでCPBの地下組織にいた。しかし2人ともその後、CPB批判派に転じている。他の6人は、CPBや同様の組織での活動経験がない弁護士、映画俳優、作家だった。
- ^ シャン州やカチン州など少数民族の地域では、その民族の衣装を着用した。
- ^ しかし、遊説中にスーチーは「自己中心的で、嫌なことには頬かむり、目先のことしか考えない」ミャンマー人の悪癖に気づいて、落胆していたのだという。
- ^ スーチーがノーベル平和賞を受け取ったのは、受賞より21年後の2012年6月16日だった。
- ^ 解放直後の2002年5月14日、ニュースステーションで、スーチーと久米宏の5分間の電話対談の音声が放送された。なお、久米はミャンマーの軍事政権を嫌い、国名を旧国名の「ビルマ」と伝えていた。
- ^ ミャンマー連邦共和国憲法の規定では、閣僚と連邦議会議員との兼職が禁じられており、与党・連邦団結発展党(USDP)の議員がテインセイン政権の閣僚に転出して空席になった議席が補欠選挙の対象になった。
- ^ スーチーが大統領になりたい意思を初めて明らかにしたのは、2013年4月来日した際の記者会見の場である。
- ^ ミャンマーへ向かう機内で、ヒラリーは『The Lady アウンサンスーチー ひき裂かれた愛』を観賞したのだという。
- ^ スーチーは、住民との質疑応答の際に、「報告書に抗議したければ、私の家でデモをすべきだ」「いかなる抗議活動も事前の許可を求める法律に従わなければならず、そうでなければ警察が呼ばれるだろう」「もしも銅山の操業を完全に停止したら、現在の環境破壊を修復するための資金はどこから調達できるというのか?鉱山の閉鎖は地元住民にとって有益ではない。他国との合意を破棄すれば、世界各国はミャンマーの財政が不安定だと判断するだろう」などと述べた。
- ^ ただ、完全小選挙区制なので議席数にこそ差はついたものの、国政選挙の得票率はNLDが約60%、USDPが約30%と、USDPも国民の3分の1ほどの支持を受けていた。
- ^ スーチーは「在任期間はほんの少しだけになると約束する。その間に憲法を改正する道を見つけるから」と言って、説得したのだという。
- ^ 世界人権宣言の最後の条文とは、第30条「この宣言のいかなる規定も、いずれかの国、集団又は個人に対して、この宣言に掲げる権利及び自由の破壊を目的とする活動に従事し、又はそのような目的を有する行為を行う権利を認めるものと解釈してはならない」である。
- ^ 『自由 自ら綴った祖国愛の記録』に「植民地統治下のビルマとインドの知的活動」というタイトルで収録。英語タイトルは「 Burma and India Some Aspects of Intellectual Life under Colonialism」。
出典
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- タンミンウー 著、中里京子 訳『ビルマ 危機の本質』河出書房新社、2021年10月27日。ISBN 978-4-309-22833-4。
- Seekins, Donald M. (2007). Burma And Japan Since 1940: From 'Co-prosperity' to 'Quiet Dialogue'. Nordic Inst of Asian Studies. ISBN 978-8791114984
- Lintner, Bertil (2012). Aung San Suu Kyi and Burma's Struggle for Democracy. Silkworm Books. ISBN 978-6162150159
- Taylor, Robert『General Ne Win: A Political Biography』Iseas-Yusof Ishak Institute、2015年。ISBN 978-9814620130。
- Popham, Peter『The Lady and the Generals: Aung San Suu Kyi and Burma’s struggle for freedom』Rider & Co、2016年。ISBN 978-1846043710。
- Selth, Andrew (2017). Aung San Suu Kyi and the Politics of Personality. Griffith University
- Lubina, Michal (2019). The Moral Democracy: The Political Thought of Aung San Suu Kyi. Scholar. ISBN 978-8365390004
- Lubina, Michał (2020). A Political Biography of Aung San Suu Kyi: A Hybrid Politician. Routledge. ISBN 978-0367469160
関連項目
]- ミャンマーの民主化運動
- オックスフォード大学の人物一覧
外部リンク
]- Daw Aung San Suu Kyi's pages(公式ホームページ)
- NLDのホームページ
- アウンサンスーチー (aungsansuukyi) - Facebook
- ノーベル平和賞受賞のプレス・リリース
- アウンサンスーチー氏の経歴[リンク切れ]
- アウンサンスーチー氏の写真(山本宗補撮影) - archive.today(2013年4月27日アーカイブ分)
- 京都精華大学「自由へのメッセージ」インタビュー - ウェイバックマシン(2001年4月30日アーカイブ分)
| 党職 | ||
|---|---|---|
| 新設官職 | 国民民主連盟書記長 1988年-2011年 | 廃止 |
| 先代 アウン・シュエ | 国民民主連盟中央執行委員会議長 2011年-現職 | 現職 |
| 議会 | ||
| 先代 Soe Tint | ミャンマー連邦議会人民代表院議員 カウム郡区選出 2012年-2016年 | 空位 |
| 公職 | ||
| 先代 Sai Hla Kyaw | 野党代表 2012年-2016年 | 次代 Khin Aung Myint |
| 空位 最後の在位者 テイン・セイン首相として | 国家顧問 2016年-2021年 | 空位 次代の在位者 ミン・アウン・フライン国家行政評議会議長として |
| 先代 ワナ・マウン・ルイン | 外相 2016年-2021年 | 次代 ワナ・マウン・ルイン |
| 先代 アウン・ミン Hla Tun ソウ・マウン ソウ・テイン Thein Nyunt | 大統領府相 2016年-2021年 | 空位 |
| 受賞 | ||
| 先代 ミハイル・ゴルバチョフ | ノーベル平和賞 1991年 | 次代 リゴベルタ・メンチュウ |
- アウンサンスーチー
- ミャンマーの首相
- 女性首相
- 21世紀アジアの統治者
- 21世紀の女性統治者
- ミャンマーの女性閣僚
- ミャンマーの女性外交官
- ミャンマーの外相
- 女性外相
- クーデターで追放された指導者
- 20世紀アジアの政治家
- 21世紀アジアの政治家
- 20世紀の女性政治家
- 21世紀の女性政治家
- 人権活動家
- ガンディー主義者
- ノーベル平和賞受賞者
- 女性のノーベル賞受賞者
- 議会名誉黄金勲章受章者
- レジオンドヌール勲章コマンドゥール受章者
- 4つの自由賞受賞者
- オーストラリア勲章受章者
- 民主化運動
- 非暴力
- 政治犯
- 20世紀の女性活動家
- 21世紀の女性活動家
- アウンサン
- 京都大学東南アジア地域研究研究所の人物
- 日本留学経験者
- ロンドン大学出身の人物
- 国際連合の職員
- オックスフォード大学出身の人物
- ヤンゴン出身の人物
- 1945年生
- 存命人物
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