ロシア革命

ロシア革命(ロシアかくめい、露: Российская революция ラシースカヤ・レヴァリューツィヤ、英: Russian Revolution)は、ロシア帝国で起きた革命であり、広義には1905年の「第一革命」と、1917年の二月革命および十月革命 (十月クーデター)の「第二革命」を指す。狭義ではレーニンらボリシェヴィキが権力を奪取した十月革命 (ボリシェヴィキ革命)を指す。

ロシア革命(ペトログラード)
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場所ロシア
結果

ボリシェヴィキの勝利。ソビエト連邦の成立

  • ニコライ2世の退位
  • 二月革命によるロシア帝国の崩壊
  • 十月革命による臨時政府の崩壊
  • ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の成立
  • ロシア内戦の開始

二月革命後の1917年3月にロシア皇帝ニコライ2世が退位してロマノフ朝が終焉し、立憲民主党 (カデット)主導の臨時政府が成立した。その後、十月革命でボリシェヴィキが権力を奪取した後、ロシア内戦を経て、1922年に史上初の社会主義国家(ソビエト社会主義共和国連邦)が樹立した。

歴史学では、1899年のロシア学生運動に革命の開始をみたり、1917年以降の「レーニンの革命」から「スターリンの革命」への移行を重視して1929年までを扱う研究もあり、広い視野でロシア革命の期間を見ている。

「二月革命」「十月革命」は当時、ロシア地域で用いられていたユリウス暦における革命勃発日を基にしており、現在一般的に用いられるグレゴリオ暦ではそれぞれ「三月革命」「十一月革命」となる。この項目で使用されている月日は1918年2月14日のグレゴリオ暦導入までの事柄についてはユリウス暦による月日で表記しており、13日を加算するとグレゴリオ暦の月日に換算できる。

前史

デカブリストの乱

1825年12月には、貴族出身の青年将校たちによって、デカブリストの乱が起きた。彼らはナポレオン戦争に出征しており、西ヨーロッパの自由主義思想や近代生活を知り、また農奴出身の兵士からロシア農村の状態を聞いたことから、農奴制と専制政治を廃止してロシアの近代化を目ざした。デカブリストの乱はロシア革命の先駆とされる。

農奴解放令・ポーランド反乱と革命思想の発達

1856年のクリミア戦争での敗北によってロシアの近代化の必要を痛感した帝政政府と皇帝アレクサンドル2世は、1861年農奴解放令を出して約2300万人の農奴を解放した。しかし、農民は条件の悪い土地を分与され、しかも地代の16.67倍の支払い義務を負った。農民は発布直後の1861年3月から4月にかけて、各地で暴動を起こした。

1863年、ポーランド・リトアニア共和国でロシア帝国への反乱である1月蜂起が発生した。ロシア帝国は反乱を鎮圧したが、ポーランドとの連帯を訴える声がロシア内外の革命的グループからあがった。

1864年には、政府は、地方自治会ゼムストボを設立し、農民にも代表選出権を認め、法の前の平等、公開裁判、弁護士、陪審員制度などを取り入れたが、不平農民の騒乱が続いた。

農民の真の解放をめざした思想家ニコライ・チェルヌイシェフスキーは、民衆蜂起のための革命的秘密結社を創設しようとしたが1862年に逮捕され、シベリア流刑を言い渡された。チェルヌイシェフスキーが獄中で書いた小説『何をなすべきか?』(1863)はロシアの革命運動に大きな影響を与えた。レーニンは「私の一生を変えた本だ」と述べ、同名のパンフレット『なにをなすべきか?』を公表し、ソビエト連邦では公式に革命文学の古典とされた。文学史研究者のジョセフ・フランクは「チェルヌイシェフスキーの小説は、マルクスの『資本論』よりもロシア革命を引き起こす感情的な原動力を後世に提供したと述べている。

チェルニシェフスキーの著書を「運動の福音」と呼んで信奉した評論家・革命理論家ピョートル・トカチョフの革命的前衛という概念はレーニンに大きな影響を与えた.。トカチョフは、農民を基盤とした人民革命がない場合、革命家たちが立ち上がり、専制的な政府を打倒すべきだと主張した。レーニン主義は、マルクス主義だけでなく、チェルヌイシェフスキー、トカチョフ、ピョートル・ザイチネフスキー、セルゲイ・ネチャーエフ、そしてレーニンの兄アレクサンドルもいた『人民の意志』などのロシア革命思想と運動に根ざしており、「ロシア流の陰謀政治」と政治行動によって革命運動を行なっていった。トカチョフはロシア・ジャコバン主義ともよばれ、メリグーノフはボリシェヴィズムの起源であり、その特徴は人民蔑視にあると指摘する。

新しい大学規則の撤回を要求する学生の紛争が生じ、退学させられた学生たちは、「人民のなかへ」をスローガンにナロードニキ運動を行い、農村に入って秘密結社を作り、社会主義を説いた。農村に入ったナロードニキの学生は2000-3000人にのぼった。1860年代から農村革命を目指す土地と自由が活動し、解散と再生を繰り返した。1870年代にはナロードニキ運動が農村で広がった。

1876年にはゲオルギー・プレハーノフらによって土地と自由が再建されたが、1879年にはテロリズムを重視する人民の意志と、農村での活動を重視するプレハーノフ、パーヴェル・アクセリロードらの土地総割替へと分裂した。プレハーノフ、アクセリロードらは1898年にロシア社会民主労働党を結成した。

皇帝暗殺事件

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アレクサンドル3世暗殺を試みたアレクサンドル・ウリヤノフ。レーニンの兄である。

1866年には過激派の青年ドミトリー・カラコーゾフによる最初の皇帝暗殺未遂事件が起こった。

アレクサンドル2世は自由主義改革を続け、憲法の作成を命じるなどしたが、1881年3月1日、人民の意志のアンドレイ・ジェリャーボフ、ニコライ・リサコフ、ポーランド人イグナツィ・フリニェヴィエツキ、ティモフェイ・ミハイロフ、ヴェーラ・フィグネル、ソフィア・ペロフスカヤ、ニコライ・キバリチチらによって暗殺された(アレクサンドル2世暗殺事件)。

1887年、レーニン(ウラジーミル・・ウリヤノフ)の兄で、人民の意志一員のアレクサンドル・ウリヤノフがアレクサンドル3世暗殺を試みたが失敗し、21歳で処刑された。

19世紀末の社会状況

1891-92年のロシア大飢饉では、375,000人から40万人の犠牲が出た。政府の災害への対応に対する不満は、ロシアのマルクス主義とポピュリズムを再燃させた。

経済危機の影響で、ストライキの参加者は1897年に6万、1898年に4万3000、1900年に2万9000人と減少していった。

大学騒擾

1899年2月からの大学騒擾は憲法を認める1905-6年まで続いた。2月8日のサンクトペテルブルク大学創立記念日では例年、学生は市の中心部へ大挙して歌い、カフェやレストランに闖入するお祭り騒ぎをやってきた。1899年、警察は騒ぎを規制し、違反した学生は罰金、拘禁にも処するという警告が告示されると、学生は抗議して、学生は雪だまと氷をなげ、警官は鞭で応える乱闘になった。急進派の学生が、警察の暴力は専制ロシアの無法性の現れであり、体制は打倒しなければならないとして国内の大学に運動への支持とストライキを呼びかけると、国内の35000人の学生のうち25000人が授業を放棄した。当局は急進派の学生指導者を逮捕し、急進派の知識人は、学生の不平を、体制への全面的拒否へと高じさせた。歴史学者リチャード・パイプスは、このような特殊な不平を一般的な政治的要求へと移し替えるやりかたは馬鹿げた論理だったが、ロシアの急進派と自由主義者の標準的な行動戦略となり、革命が不可欠であり、現体制がつづく限り何も改良されることはないという思想は、妥協と改革を妨げるものであったと指摘している。

1900年12月のキエフの大学騒擾で、文相は183人の学生を逮捕し、軍隊へ送った。学生テロリストは文相を暗殺し、ストライキが多くの大学で続いた。以降、大学は反政府活動の拠点になった。1902年4月、エスエルは内務大臣ドミトリー・シピャーギンを暗殺した。後任のヴャチェスラフ・プレーヴェは、警察の密偵をエスエル戦闘団に潜入させ、多くの暗殺計画を失敗させた。ズバトフはオフラナの有能な密偵で、労働組合を警察が乗っ取り、中立化することを思いつき、警察の後援をうけた労働組合を組織した。

帝政ロシアの警察制度

1898年以降、ロシアで社会的騒擾が高まると、帝政ロシア政府は警察機構を強化したが、次の三つの要因で弱体化した。

  1. 私有財産が尊重されていたため、投獄や流刑によって国家が個人から財産を剥奪できず、そのため、革命運動家の財産は手をつけられず、外国への送金も合法的だった。
  2. 当局は危険分子が外国へ行くのをよしとしていたため、知識人はロンドン、チューリッヒ、パリ、ベルリンなどで活動できた。
  3. 帝政ロシア指導層は、諸外国から近代エリート層とみられたかったために、抑圧的体制の必要性を感じながらも、矛盾した行動をとっていた

帝政ロシアは原則として警察国家だったが、実際はあまり抑圧的でなく、警察機構に依拠しながらも脆弱で無能だった。ニコライ2世が政権につく十年間に政治犯への死刑執行は17件にすぎず、死刑判決をうけたものの大部分が実際に暗殺を実行した。アレクサンドル2世の時代には4000人は政治的理由で逮捕拘禁されたが、ソ連時代のように体制の政治的敵対者が普通犯に仕立て上げられることはなかったことは強調しておくべきだろうとダンコースはいう。ニコライ2世の時代には犯罪者名簿はこれよりすくなく、高官暗殺が頻発した時代背景などを考慮すれば、この時代のロシアを「警察国家」と規定できないほどであったとダンコースはいう。

ユダヤ人の被害(ポグロム)は、警察の監視によるのでなく、加害者に対して警察がかなり「寛容」だったためだった。帝国内の600万のユダヤ人の悲劇に帝政は目を閉じたが、そのことが大きな損失となった。ロシアのユダヤ人は欧米に脱出していった。

ロシアの東アジアへの進出と日露戦争

1895年の日清戦争で日本に敗れた清国に対してロシアは三国干渉等で清を援助し、その見返りとして露清密約をむすんだ。ロシアはこの密約においてシベリア横断鉄道が満洲を横断する許可を清国政府から得た。清は現地の主権をロシアが遵守すべきと考えていたが、ロシアは密約の条項を侵犯し、満州併合をめざして満州に大量の軍と警察を駐留させた。さらに1900年の義和団の乱に乗じてロシアは江東六十四屯などを攻撃した(zh:庚子俄难)。ロシアの満州侵略によって、清は日露戦争で中立の立場をとることとなった。

1903年1月、皇帝は満州併合を迫る助言者にしたがった。日本は、朝鮮での日本の権益をロシアが認めるかわりに、満州をロシアに譲り、同地を勢力圏へと分割することを提案したが、ロシアは拒否し、日露戦争へと至った。ロシアは日本を「帽子をかぶった小猿」とよんで軽蔑していたが、1904年2月8日、日本は旅順を奇襲攻撃し、仁川沖海戦ではロシア軍艦ヴァリャーグとコレーエツが沈められた。これによりロシア帝国の威信は動揺した。

日露戦開戦後の1904年7月28日、エスエルは内相ヴャチェスラフ・プレーヴェを暗殺した。プレーヴェの後任の内相ピョートル・スヴャトポルク=ミルスキーは警察的な方法だけでなく、臣民からの信任が必要だと考え、地方自治機関ゼムストヴォの自由主義者はミルスキーの方針を歓迎した。1904年11月のサンクトペテルブルクのゼムストヴォ大会で、保守派リベラルは議会はロシアの伝統に相いれないので皇帝に助言を行う機関に限定されるべきと主張する一方、リベラルは立法権をもつ議会を主張、投票でリベラルが勝利した。これはフランス革命での全国三部会に比肩しうるもので、国制変更や皇帝の権限の制限を議論した集会はロシア史上初だった。続けて数週間、憲法と議会を呼びかける集会が開かれていった。

1904年12月、旅順攻囲戦で旅順要塞のロシア軍が降伏、ロシア太平洋艦艇旅順艦隊もほぼ全滅し、さらに1905年5月に日本海海戦で、残りのロシア太平洋艦隊も敗北した。これによりロシア帝国の威信は決定的に失墜した。

1905年ロシア第一革命

血の日曜日事件

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ゲオルギー・ガポン神父

1905年1月9日、労働組合員の解雇を発端として、ゲオルギー・ガポン神父が、労働者の権利、憲法制定会議の招集、政治的自由、日本との戦争の中止などを皇帝に請願して10万人が行進した。デモ隊は請願を受け取られたと思い込んでいたために警察の警告を無視して前進していたが、警備部隊はデモ隊が警告を無視したために発砲し、死傷者は数百人にのぼった。

騒擾の拡大

この血の日曜日事件の翌日からストライキは全国に拡大し、民衆の間にあったツァーリ信仰も崩れた。皇帝は治安を強化する一方で、首都から地方の農村まで騒擾がひろがった。ストライキ運動は、ポーランドバルト三国、ジョージアなどにも広がった。ガポン神父は亡命したが、翌1906年4月に社会革命党によって暗殺された。

スイスで血の日曜日事件を知ったレーニンは、パリ・コミューンのように武装した革命軍を編成し、警察や銀行を襲撃せよとロシアの同志に命じたものの、当時のロシア国内のボリシェヴィキ党員は215人、うち109人は学生という規模にすぎず、非現実的な指示であった。

しかし、社会革命党はテロリズムを実行していった。1905年2月4日にはアレクサンドル2世の五男セルゲイ・アレクサンドロヴィチロシア大公が社会革命党の学生によって暗殺された。

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グリゴリー・ヴァクレンチュク

1905年6月14日、黒海艦隊の戦艦ポチョムキンの水兵でボリシェヴィキのグリゴリー・ヴァクレンチュクが指導した反乱が起きたが、鎮圧された。

1905年8月末、政府は懐柔策として、大学管理を緩和し、学内での集会が可能になり、警察の学内侵入を禁じた。これを急進派は利用し、工場労働者を大学の集会に参加させ、大学は政治アジテーションの場になっていき、研究を行う教授や学生は嫌がらせをうけ、脅迫された。

1905年9月には日本との講和条約ポーツマス条約が締結され、ロシアは満州から撤退し、日本に朝鮮半島での優越権、南樺太、大連や旅順など関東州の租借権などを譲った。セルゲイ・ウィッテが日本との講和交渉から帰国すると、全国規模でストライキが発生した。

1905年9月末、モスクワ、サンクトペテルブルクの植字工がストライキを起こし、鉄道員のストライキ、そしてゼネストを目指して大学で集会が開かれた。1905年10月、公共サービス部門労働者がストライキを行った。10月13日、サンクトペテルブルク工科大学で急進派知識人に指導されたストライキ委員会が招集され、4日後にそれは労働者代表ソヴィエトを名乗った。これは、1917年のペトログラード・ソビエトの先例となった。皇帝ら政府は、立憲君主体制への改革か、軍事独裁かの選択を迫られていた。ニコライ2世が従兄弟のニコライ・ニコラエヴィッチ大公に独裁的権限の掌握を依頼すると、大公は「軍事独裁のために利用できる軍隊は存在しない」「もしツァーリが国内に政治的な諸自由を下賜しないなら銃で自殺する」と脅した。

1905年10月26日には、クロンシュタット水兵の反乱が発生し、13,000人の水兵と船員が参加したが鎮圧され、17人が死亡した。1905年11月11日には、黒海艦隊のオチャーコフ艦上でピョートル・シュミットと兵士ソビエト8000人が反乱するセヴァストポリ蜂起が起きたが、鎮圧された。

十月詔書

10月17日に十月詔書が公布され、言論の自由、集会の自由などの市民的自由、普通選挙権、国会(ドゥーマ)の承認なしの法の無効が宣言された。これはロシア専制政治の終焉だったが、皇帝は、ウィッテら助言者から、皇帝が譲歩したものはいつでも撤回できると聞かされており、これがのちにさらなる難事をもたらした。モスクワでは10月23日までに鉄道職員のストライキによって鉄道が運転されなくなり、物資が届かず、物価は暴騰した。

都市では、歓喜する群衆がデモ行進をし、また、皇帝に専制を放棄させたとしてユダヤ人へのポグロムがおきたが、政府は対策しなかった。農民は、警察がユダヤ人を保護しないということは、地主貴族の領地に対してポグロムを行うことを許していると解釈し、農村で騒擾が発生し、農民による土地の略取が続いた。

1905年はロシア自由主義の絶頂であり、社会主義者の役割は補助的なものだった。1905年は政治制度を実質的に変えたが、帝政派は何の変化もなかったかのように装い、皇帝は議会を助言機関にすぎないとみなし、社会主義者は急進化した。

1905年12月6日、ボリシェヴィキが支配するモスクワ・ソビエトはツァーリ政府を打倒し、憲法制定会議の召集をめざしての武装蜂起をよびかけた。この背後にはパルヴスの永続革命論による行動戦略があった。12月7日から18日にかけて武装労働者がモスクワで蜂起したが鎮圧され、数百人の死者がでた。同時期にロストフ蜂起、ニジニ・ノヴゴロド蜂起、モトビリハ蜂起が起きたがいずれも鎮圧された。

立憲国家への模索とストルイピン

1905年11月には検閲が廃止され、1906年3月には集会の自由が保障され、ロシア史上はじめて政党と労働組合の結成が可能になった。1906年4月に定められたロシア帝国国家基本法で、二院制議会のドゥーマが成立した。しかし、皇帝は閣僚任命権、議会解散権、勅令で統治する権限も保持しており、自由主義者はこれに失望した。一方、基本法では議員免責が定められ、急進派議員はこれを利用して、度を越した体制批判を行った。

1906年4月の第一国会(ドゥマ)のための選挙に際してエス・エルとロシア社会民主労働党(メンシェヴィキとボリシェヴィキ)はボイコットし、総議席476のうち、カデットが179議席を占めた。カデットは教会や貴族の議員がいる上院の廃止、大臣の指名権、大土地所領の収用、政治囚の恩赦をもとめたが、皇帝はこれを非妥協的とみなして、1906年7月8日に議会を解散した。カデットはロシアの警察権が及ばないフィンランドのヴィボルグへ撤退し、そこから納税と徴兵の拒否を人々に訴えた(ヴィボルグ宣言)。

1906年から1907年にかけて、 テロによって4500人の官吏が殺されたか、不具にされ、民間人を含めると、左翼テロリズムの犠牲者は9000人にのぼった。

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ピョートル・ストルイピン

1906年7月に首相に就任したピョートル・ストルイピンは農民騒擾とエスエルのテロリズムの鎮圧を実施した。

1905年以来の農村蜂起に対して、ストルイピンは農村制度を改革し、農民に移動の自由をみとめ、農奴制の遺物を廃止し、1906年11月には農民はミール (農村共同体)から脱退しての私的な農業経営が可能になった。

1907年2月から始まった第二国会では、社会革命党(エスエル)も議員免責を使って議会を掘り崩しすために議会に参加し、社会民主主義者も革命運動をめざして参加し、その結果、222議席を急進派が獲得した。皇帝らは、急進派を減らすために1907年6月2日、第2国会を解散させ、選挙法を改正して有産階級の代表を増やした。しかし、これは基本法で選挙権変更のための87条利用を禁じていたため違憲だった。反政府派はこれをストルイピン首相らによる「6月クーデタ」と呼んだが、それが議会の基本的な権限を損ねることはなかったことから考えると、この表現は不適切だと歴史学者パイプスはいう。

1907年11月の第三国会で422議席のうち、自由主義的保守派の10月17日同盟(オクチャブリスト)が最多の154議席を獲得、カデットは54議席、社会民主主義者は32議席だった。第3国会はオクチャブリストとストルイピンが提携して政治が安定し、1908-9年は平穏で、暴力が低調となり、工業が発展した。しかし、ストルイピンはユダヤ人に市民権を与えたことで右派の反発を招き、弾圧された自由主義者と社会主義者もストルイピンを嫌悪していたために、孤立した。

1907年のボリシェヴィキ

この頃、ボリシェヴィキとメンシェヴィキのいるロシア社会民主労働党の資金源には上流階級を嫌う資産家カルムイコワからの3600ルーブル、実業家サーヴァ・モロゾフからの毎月2000ルーブルの献金があった。当時リベラル層にとって革命政党への献金は良い趣味とされており、弁護士、技術者、医師、銀行の重役、ツァーリ政府の当局者さえも献金した。

しかし、こうした献金では活動資金が足りなくなったと感じたレーニンはレオニード・クラーシンとヨシフ・スターリンに命じて強盗集団を組織し、「エクスプロ(強制収奪)」と称して、銀行、蒸気船ニコライ一世号の金庫、郵便局、鉄道の駅を襲い、金品を奪っていった。この「収奪 (expropriation)」とはマルクス『資本論』の「収奪者が収奪される」にちなんだものだった。クラーシンは偽札印刷を計画したが、これは実現しなかった。1907年春のロンドンでの第五回党大会では、レーニンらの「強制収奪」が争点となり、マルトフはこれはボリシェヴィキのための資金集めであり、(党にとっては)泥棒行為だと非難した。レーニンはあざけりながら、戦闘集団による革命のための用意だと強盗を正当化した。しかし、大会では収奪は禁止された。

しかし、その数週間後の1907年7月、ボリシェヴィキ強盗団はグルジアの首都で現金輸送馬車を襲撃した(1907年チフリス銀行強盗事件)。ボリシェヴィキは、25万-34万1000ルーブリ(現在では400万米ドル以上)を持ち去り、15人の通行人が巻き添えで死亡し、50人が重傷をおった。これはヨーロッパの革命政党も動揺した。レーニンは表向きは距離をとっていたが計画の詳細を承知し、承認していた。盗んだ紙幣はヨーロッパ各地で両替されたが、紙幣の番号を追跡され、十数人の党員が逮捕された。

同年のシュミット遺産横領事件では10万ルーブリを得た。さらに資金を欲したレーニンは二人の十代の少女が相続した遺産を詐取する計画をたてた。サーヴァ・モロゾフは1905年5月に自殺すると財産の一部をロシア社会民主労働党に遺贈したが、レーニンは残りの遺産を欲しがった。モロゾフは甥のニコライ・パヴロヴィッチ・シュミットにも財産を残した。シュミットもロシア社会民主労働党支持者だったが、ボリシェヴィキの支持者ではなかった。シュミットは警察に暴徒を支援したかどで逮捕され、1907年2月に獄中で死亡した。レーニンはこの知らせを聞くと、シュミットの二人の妹に、ハンサムな若い活動家を派遣し、ロマンス詐欺のような手口で資産獲得を計画し、実行した。レーニンは「プロレタリアの大義のために行われることはすべて誠実だ」と語り、平気で嘘をつき、盗み、人を騙し、殺すことをいとわなかった。計画は成功し、二組は結婚した。しかし、19歳の姉のエカチェリーナと結婚した党員は少額を党に渡しあとはフランスに出奔したため、レーニンは裏切りに激怒した。17歳で未成年だった妹エリザヴェータは、27万984フランの財産(現在の価値で200万米ドル)をロシア社会民主労働党に遺贈した。レーニンの妻ナージャはこの事件に愕然とし、身の毛がよだつ思いがしたとのべた。レーニンは、個人的にはこの計画に吐き気をおぼえるが、エリザヴェータと結婚した活動家タラトゥタについて「われわれに必要なのは悪党なのかもしれない」と語った。シュミットの遺産について、メンシェヴィキはこれは社会民主労働党に遺贈されたもので、ボリシェヴィキに対して遺贈されたのではないと主張したが、レーニンはボリシェヴィキのために確保しようとした。調停を委ねられたカウツキーはレーニンからの資金要求にうんざりして、資産管理を退任した。

レーニンはスイスで党員十数人に200-600フランの月給を払い、自分は350フランをうけとった。このほか、母親から送金をうけた。ナージャは晩年、スイスでの生活は質素ではあったが、極貧でなく、飢えてもいなかったと述べている。正規の社会民主党の党費による収入は毎月100ルーブル程度にすぎなかったが、こうした「収奪(収用)」によってボリシェヴィキは首都とモスクワの組織に毎月1000〜5000ルーブルを渡すことができ、勢力を伸ばしていった。

ストルイピン首相の暗殺

1911年3月、西部ゼムストヴォ拡大法案で、国家評議会が皇帝から許可をえたうえで代理投票して法案を無効にした。ストルイピンはこれに反発して辞任を申し出るが、皇帝にとめられた。結局、西部ゼムストヴォ法案が公布されるが、オクチャブリストは離反し、宮廷でストルイピンはさらに孤立した。9月、ストルイピンは、テロリスト集団に所属しながら警察にも協力していたドミトリー・ボグロフに暗殺された。

ストライキ件数
年次 ストライキ件数 参加労働者数
絶対数 /全工場数(%) 絶対数 /全労働者(%)
1905 13,995 93.2 2,863,173 163.6
1906 6,114 42.2 1,108,406 65.6
1907 3,573 23.8 740,074 41.9
1908 892 5.9 176,101 9.7
1909 340 2.3 64,166 3.5
1910 222 1.4 46,623 2.4
1911 466 2.8 105,110 5.1
1912 2,032 11.7 725,491 33⁰⁹⁰
1913 2,404 13.4 887,096 38.3
1914 3,534 25.2 1,337,458 68.2
1915 928 7.3 539,528 28.1
1916 1,410 11.3 1,086,364 51.9

ストルイピン暗殺から第一次世界大戦までの3年間は、経済的には活況で、製鉄生産も輸出輸入量も1900年の二倍になり、農村は平穏で、社会主義は退潮した。一方で憎悪が蔓延し、急進派は体制への憎悪をつのらせ、農民はミール脱退者を嫌悪し、ウクライナ人はユダヤ人を憎み、ムスリムはアルメニア人を憎んだ。

1912年4月、バイカル湖北方のレナ金鉱でストライキ中の労働者に対して軍隊が発砲し、多数の死者が出た(レナ金鉱事件)。全国に抗議ストが広がり、労働運動は再活性化へと向かった。ストライキは1914年には第一革命期に匹敵するレベルに達した。

第一次世界大戦から1917年二月革命まで

1914年のサラエボ事件でセルビア人によるオーストリア皇太子フランツ・フェルディナントが暗殺された。ロシアは正教徒の保護者を自認しており、バルカン半島での威信を失うことをおそて、セルビアを保護するために動員した。ドイツは国境に沿って軍隊を集結させるなとロシアに最後通牒したが、返答はなく、ドイツはロシアに宣戦布告した。ドイツ、オーストリア=ハンガリー帝国を中心とする中央同盟国に対して、ロシア、イギリス、フランスの三国協商を中心とする連合国との間で第一次世界大戦が始まった。

戦況悪化

第一次世界大戦においてツァーリの軍は、ハプスブルク軍を破ったものの、ドイツ軍には敗北続きで、ポーランドやバルト諸国からは退却した。全ロシア・ゼムストヴォ連合は武器生産を増やしたものの、市民の資源を使い果たし、行政の無能さを明るみに出した。減耗分を埋め合わせるために急いで召集された新兵は、十分な訓練を受けられず、装備も貧弱で、おびただしい被害を出し、兵士の士気が低いことが伝わると、上層部への怒りが強まった。

労働運動の再燃

第一次世界大戦によって愛国主義が高まり、弾圧も強まって労働運動はいったん脇に押しやられたが、戦争が生活条件の悪化をもたらすと労働運動は復活した。1915年6月にコストロマー、8月にイヴァノヴォ=ヴォズネセンスクで労働者が警官と軍隊に射殺される事件が起き、抗議のストを呼び起こした。

ラスプーチンと皇帝政府への批判

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グリゴリー・ラスプーチン

1915年7月にロシア軍がワルシャワで敗北すると、ニコライ2世は前線に向かって軍を自ら指揮すると決定したが、敗北の責任を皇帝が負うことになった上、皇帝が戦地に赴いたことで、政治的真空状態が生まれたため、これは致命的な誤りとなった。

アレクサンドラ皇后は、謎の僧侶ラスプーチンとのつきあいをやめなかった。アレクサンドラ皇后はドイツ出身であり、敵国に機密を渡しているのではないかという疑いが国内に行き渡っていた。また、「ドイツ女」とよばれた皇后とラスプーチンとの性的なうわさ話が街では蔓延しており、政府にとって危険だと報告もされていた。ラスプーチンは権勢を揮い、1915年8月からは彼の同意なくして官職への就職もできなくなった。ラスプーチンを排除すべきとの助言に対して、皇帝はラスプーチンを擁護したが、帝政派はラスプーチンを帝室の恥辱だと考え、宮廷から遠ざかった。

自由主義者は1915年に国会でカデットを中心として「進歩ブロック」をつくり、戦勝をもたらしうる「信任内閣」の実現をめざして政府批判を強めた。自由主義陣営内の急進派は労働者代表も含む工業動員のための組織として戦時工業委員会を主要都市に設立した。

1916年6月、政府は従来兵役を免除してきた中央アジア諸民族やザカフカーズの回教徒住民を後方勤務に動員することを発表した。中央アジア、カザフスタンの住民は7月に反乱を起こした。10月にはペトログラードの労働者がストライキを行い、軍隊の一部も加わった。

1916年11月1日の国会でケレンスキーは、敵は前線でなく国内にいると主張し、政府が国益を損ねているとその打倒を主張し、立憲民主党(カデット)のパーヴェル・ミリュコーフは、ドイツ系の首相ボリス・シュトゥルメルが国家反逆罪にあたる証拠がいくつもあると告発した。ミリュコーフの演説は何十万部もコピーされ、国と前線に配布され、革命の気運を高めた。しかし、シュトゥルメルを告発する証拠がなかったことは、亡命後ミリュコーフ本人が認めた。

帝政を打倒しなければならないという確信は、革命家だけでなく、保守派にも広まり、帝政派は帝政を救うために、皇后とラスプーチンの排除を画策した。

1916年12月17日、貴族のフェリックス・ユスポフ、ニコライ2世の従弟ドミトリー・パヴロヴィチらによってラスプーチンは暗殺された。この結果、皇帝と皇后は逆に親密になり、皇帝夫妻は宮廷で孤立し、皇帝一家はツァールスコエ・セローに引きこもった。

生前、ラスプーチンは自分に何らかの危害が降りかかるようなことがあれば、国は血のなかに沈むと予言していた。皇帝は1917年1月7日、ロジャンコ議員が皇帝と国益のどちらを選ぶかと聞かれると、皇帝は「22年間最善を尽くしてきたが、それが全て誤りだったのか」と平静さを失って言った。ミハイル・アレクセーエフ参謀長を含む保守派は、ラスプーチン暗殺によっても皇帝が改心しなかったため、もはや帝政を救うためには皇帝を排除しなければならないと決意し、アレクセイ皇太子にニコライ・ニコラエヴィチ大公を摂政としてつけて、皇帝に退位をせまる策謀をはじめた。

軍隊への革命運動の影響

第一次世界大戦の戦況悪化により、軍隊の士気は落ちており、1916年末までに500万人が戦死か戦傷、捕虜になり、また、脱走兵も多かった。ホテルには前線にいるはずの将校が群れる一方で、厭戦的な兵士たちはボリシェヴィキにとっては党員獲得のチャンスだった。

帝国の秘密警察オフラーナは、革命がおきれば兵士の三分の二が支持するだろうと報告し、また皇族と中道右派による皇帝打倒の陰謀があるとも報告した。イギリスの駐露大使らも革命が差し迫っているが、危機を回避する対策がとられていないと見ていた。

1917年1月、中央戦時工業委員会労働者グループは「国の完全な民主化」「人民に依拠する臨時政府」をスローガンとして掲げて国会デモを呼びかけた。政府は労働者グループのメンバーや協力者を逮捕し、中央戦時工業委員会は抗議声明を発表した。

二月革命

二月革命の勃発

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1917年2月、抗議デモ
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1917年のペトログラード・ソヴィエト会議

1917年初頭の冬は過酷なほどに寒く、1月末から2月のペトログラードの平均気温はマイナス15度だった。都市への輸送網がほぼ停止し、ペトログラードやモスクワへ穀物は供給されず、食料供給が止まっていた。また、政府は1905年のロシア第一革命を教訓とし、首都は16万人の守備隊に護られていた。

2月22日、皇帝はツァールスコエ・セローから前線に戻った。同時に、天気が好転し、寒気から解放された群衆は太陽の光を浴びるために戸外へ出た。労働運動家も活動を再開した。

2月23日、金属労働者のストライキをきっかけに、主婦、繊維労働者も加わり、一部の女性はパン屋を襲撃した。ペトログラードで国際婦人デーにあわせてヴィボルグ地区の女性労働者がストライキに入り、デモを行った。食糧不足への不満を背景とした「パンをよこせ」という要求が中心となっていた。デモ隊は23日には13万が参加した。この2月23日のデモは比較的穏やかで、デモ参加者は政府の弾圧を覚悟していたが、権力は反撃しなかった。

2月24日、群衆は安全を確信し、より攻撃的にデモを行った。群衆は15万人(18万とも)に膨れ上がり、デモ隊の一部は銃撃された。民衆は「パンをよこせ」でなく、「皇帝を倒せ」「平和を寄こせ」「くたばれドイツ女(皇后のこと」と叫んだ。群衆はペトログラード本部長を投石で殺害し、政府庁舎を占拠した。

2月25日、政府からの反撃をうけなかった群衆はさらに攻撃的になり、赤旗を掲げるものもおり、憲兵が攻撃された。プチブルジョワや学生も参加し、首都全体がこの運動に飲み込まれようとなったとき、政府が軍隊の出動を決定した。しかし、群衆と軍はこの日は衝突することはなかった。2月25日夜、皇帝ニコライ2世は武力での鎮圧を電報で命じた。

2月26日朝、部隊が首都を占拠し、秩序が回復するかにみえた。しかし、ズナメンスキー広場で、パヴロフスキー近衛連隊が群衆に発砲し、40人の死傷者がでた。これがペトログラード守備隊の抗命をもたらし、それがただちに労働者に伝わり、爆発した。ペトログラード守備隊は30-40代で、彼らは徴兵を免れていると考えていた。しかしペトログラード守備隊の兵舎は二万人収容のところ16万が押し込められており、不満をつのらせていた。ズナメンスキー広場での虐殺をきいたペトログラード守備隊の何人かの兵士は怒って、広場へ向かい、途中、騎馬警察と銃撃戦を交わした。他方、パヴロフスキー近衛連隊はその夜、民間人への発砲命令には服さないと決定した。

軍ではデモの解散命令が射撃命令に変わっていたが、群衆が軍にデモに参加するようよびかけると、複数の連隊が蜂起側に寝返り、デモ隊は武器を獲得、監獄を解放し、逮捕されていたデモ指導者を解放していった。

2月27日朝、三つの連隊が抗命し、将校が殺される部隊もあった。反乱兵士は装甲車を徴発し、武器をもって、暴れた。暴徒は警官を殺し、内務省を略奪した。2月27日午後遅く、群衆は保安部の本署を襲撃し、焼き、兵器庫に乱入し、何千挺のライフルが盗まれた。商店、レストラン、私邸が略奪された。

16万の守備隊のうち半分が反乱し、残りは中立をとった。軍司令部は無力で、その支配下にあったのは2000人の部隊と3500人の警官とわずかなコサック騎兵だけだった。皇帝はイヴァノフ将軍の前線部隊、機関銃部隊八個連帯の首都への急派を命じた。

他の労働者もデモに呼応し、数日のうちにデモとストは全市に広がった。要求も「戦争反対」や「専制打倒」へと拡大した。労働組合がゼネストを宣言すると、首都機能は停止した。

軍の混乱

前線で軍を指揮していた皇帝ニコライ2世は、セルゲイ・ハバロフ将軍にデモやストの鎮圧を命じたが、ハバロフは狼狽した。兵士が命令に従わないことはあきらかだった。皇帝は、ドゥーマにも停会命令を出した。

兵士のなかには、警察や軍が銃撃したのに衝撃をうけ、寝返って将校を撃ち始めるものもいた。守備隊の下士官が続々と上官を殺害し、反乱兵士は兵器庫の占領に成功し、群衆は監獄を解放した。警察は暴徒にのっとられ、平服に着替えられなかった警官はずたずたに殺された。フランス大使モーリス・パレオローグは、「軍規は失われ、将校ははずかしめられ、文句をいえば殺され、脱走兵がまちをうろつき、鉄道の客車を襲撃し、列車を乗っ取ると、駅長に行き先を変えるよう強制した」と報告している。

参謀総長ミハイル・アレクセーエフはペトログラードへ進軍しようとしたが、不穏な動きがあり、軍隊の維持のためには皇帝を切り捨てるほかなかった。軍が命令に服従しなくなったことで、ツァーリの権力は消え失せた。

兵士たちは帝政を打倒したのは自分たちだと考えていた。兵士たちの多くはボリシェヴィキに入党したが、彼らはボリシェヴィキの公約を、故郷へ戻り、土地所有者から強奪し、税金を払わず、権威を認めず、平和に暮らすことと捉え、法も地主もいない、無政府主義的な「自由」こそ、かれらがボリシェヴィズムと呼んだものだったと、アレクセイ・ブルシーロフ元帥はのちに語った。

二月革命の実態

二月革命は、自然発生的で、怒りの発作だった。無能で破綻した体制への大衆的蜂起の見本である。記者アーサー・ランサムは「これは組織的な革命ではなかった」と報じた。

二月革命は当初、その後100年たってもロシアが持てなかった政治的自由をもたらし、革命を祝うお祝い騒ぎが続いた。しかし、やがて復讐が追求され、陰惨なものになっていった。歴代皇帝の像が引き倒され、帝室の紋章が破壊され、旧体制のあらゆる機関が攻撃された。私刑(リンチ)による裁き、家屋や商店の破壊、役人や外国人への中傷、非公認の逮捕、理由なき拘束や暴行が毎日繰り返された。

パイプスによれば、二月革命の犠牲者は1300-1450人、うち死者は169人で、4000人の公務員が勾留された。内務大臣だったプロトポーポフは収監後、チェーカーによって処刑された。

歴史家セベスチェンは、二月革命は平和的な蜂起だとの説明は通俗的な神話であり、その実態は暴力的で、武装ギャングが街頭をうろつき、ペトログラードで1433人、モスクワで3000人が犠牲になっており、十月革命よりはるかに多くの人が死んでいると指摘している。

革命家たち

革命家たち、急進グループは二月革命で何に役割も果たさなかった。社会革命党は「眠っていた」し、ロシア国内のボリシェヴィキもデモに参加したものの、デモを指導できなかった。当時ペトログラードでのボリシェヴィキ最高指導者シュリャプニコフは、二月時点でボリシェヴィキは3000人ほどで、ほぼ完全に無一文だったと認めている。

ゴーリキーは帝政打倒を支持したが、暴力と復讐のアナーキーな波が、ロシアを野蛮な混沌の新たな暗黒時代にしてしまった、と述べて、群衆の破壊を嫌悪した。ゴーリキーは首都はもはや汚水溜めであり、誰も働かず、街路は不潔で、中庭は悪臭をはなつゴミの山、人々のなかに怠惰と臆病が成長し、卑劣で犯罪的な本能がロシアを壊していると語った。

トロツキーは暴動の無政府状態のなかに、破壊行為のなかに、そのもっとも否定的な側面のなかにさえ、人格の目覚めは表現されていると暴力を正当化した。

レーニンは、二月革命の勃発をスイスで知った。連合国が通行を拒否すること、また、中立のスウェーデン経由で帰国しても、親ドイツ的で反ロシア的なレーニンの態度がロシアで非難されることをおそれ、レーニンは帰国しなかった。レーニンは檻の中の獣のように怒りながら、ロシアの部下たちがメンシェヴィキの方針に従うことを極度におそれた。レーニンは暴力によって自分がすばやく権力の座につけると確信して、復讐と破壊を煽った。3月6日から19日にかけて首都のボリシェヴィキ党員にレーニンは臨時政府とケレンスキーを支持しないと電報を打ち、「プロレタリアを武装させよ」と軍事的蜂起をよびかけ、「他党とはいかなる接近和解もしない」と他党との協力を拒否した。これは、クーデタがボリシェヴィキによってのみ行われることを意味した。しかし、ボリシェヴィキ党は当時、人気がなく、反乱兵士のなかにボリシェヴィキに従うものはほとんどいなかったし、首都の労働者もボリシェヴィキよりメンシェヴィキやエスエルを支持していたありさまで、野望にみちた国家転覆の計画を実現できる立場にはなかった。。

ペトログラード・ソビエトとドゥーマ臨時委員会による臨時政府

2月27日、労働者の代議員や兵士はメンシェヴィキの呼びかけに応じてペトログラード労働者・兵士代表ソビエト(ペトログラード・ソビエト)を結成した。メンシェヴィキのチヘイゼが議長に選ばれ、ケレンスキー、ボグダーノフも入った。ペトログラード・ソビエトはドゥーマのあるタヴリーダ宮殿に設置された。

一方、同じ日にドゥーマの議員は国会議長である十月党(オクチャブリスト)のミハイル・ロジャンコのもとで臨時委員会をつくって新政府の設立へと動いた。

2月28日、皇帝は家族のいるツァールスコエ・セローに向かったが、線路は敵対部隊の手に落ちており、列車は首都近郊で停止した。皇帝はプスコフの北部戦線司令部に向かったが、司令官ルスキーは反帝政派だった。

皇帝は国会解散を命じていたが、同2月28日、進歩ブロックと会派代表が私的な会合をひらいた。かれらは宮殿前の群衆をおそれ、12人の議員からなる執行機関ドゥーマ臨時委員会をたちあげると決定、このドゥーマ臨時委員会は事実上、ロシアの政府となった。

同2月28日、ペトログラードソビエトの機関紙「イズヴェスチヤ」でモロトフとシリャーブニコフは、革命臨時政府の創設、普通選挙、憲法制定会議の開催、労働者同士の平和、大地主の所有地の没収などを宣言した。レーニンはこのときまだスイスにいた。

ペトログラード・ソビエトでの総会は、議事日程も投票手続きもなく、参加者全員に発言権利を認めたために果てしない演説の場となったために、ソビエトの決定権限を執行委員会(イスポルコム)へと移すことになった。この執行委員会はソビエトから選出されたのでなく、社会主義各党から三議席が割り当てられていた。この結果、当時、労働者のなかでもわずかな支持者しかおらず、兵士では誰も支持していなかったボリシェヴィキ党の代表が不自然に拡大された。また、ソビエト総会の決定は事前に社会主義者の幹事会で決められるようになり、執行委員会は官僚制化した。ロシアがブルジョワ革命を迎える間に、次の社会主義の局面に備えるまでは政府には加わらないというボリシェヴィキの教義を採用したソビエトは、ドゥーマ委員会への不参加を決定。こうして二重権力とよばれる状態が十月まで続いた。

3月1日、ペトログラード・ソヴィエト執行委員会はペトログラード守備軍に対して「指令第一号(命令第一号)」を出した。これは社会主義者の将校と民間人グループによって発案され、反革命の温床とされた将校団の破壊を目的としていた。命令第一号はやがて軍全てに適用された。この指令では、軍の部隊ごとに委員会を結成し、ペトログラード・ソヴィエトに代表を送ること、軍のソビエトへの服従(3条)、指令を取り消す権限はソビエトにあること(4条)、軍の装備に責任をもつのは中隊と大隊の委員会であり、将校がその装備に接近することは許されない(5条)などが定められ、これは徹底的に軍を破壊した。「命令第一号」では、軍の権限を臨時政府でなく、ペトログラード・ソビエトに与えており、兵士は「市民」であり、軍法には縛られないとされ、将校と兵士の上下関係や指揮系統が崩壊した。

また、兵士委員会は、メンシェヴィキ、ボリシェヴィキ、エスエルの知識人からなる下級将校が掌握し、ソビエトが軍を支配した。

また、「国会軍事委員会の命令は、それが労兵ソヴィエトの命令と決定に反しないかぎりで遂行すべきである」などとし、国家権力を臨時政府と分かちあう姿勢を示した。

3月1日から2日夜にかけて執行委員会はドゥーマ代表と会合し、政治犯への恩赦、憲法制定会議の準備、警察の解体、自治機関を刷新するための選挙、革命に参加した軍隊が武器を保持し、前線に送られないことを保証することなど8項目の政綱をつくり、これによりロシアの行政と保安の全機構が一挙に廃絶された。

3月2日、ドゥーマ臨時委員会はゼムストヴォの指導者ゲオルギー・リヴォフ公爵を首相とする臨時政府(第一次臨時政府)を設立した。外相にはカデットのパーヴェル・ミリュコーフ、陸海軍相には十月党のアレクサンドル・グチコフなどからなる自由主義者中心の内閣であった。社会革命党から法相として入閣したアレクサンドル・ケレンスキーは穏健派社会主義者とみられ、民衆に人気があった。決定的に勝利するまで戦争を継続しようとする臨時政府に対して、ソビエトは負け戦に反対していたが、この対立は一時的にケレンスキーらエスエルとメンシェヴィキの入閣で解消された。

ペトログラード・ソヴィエトを指導するメンシェヴィキは、ロシアが当面する革命はブルジョワ革命であり、権力はブルジョワジーが握るべきであるという認識から、臨時政府をブルジョワ政府と見なして支持する方針を示した。

一方、3月2日にチューリヒで革命のニュースを知ったレーニンは、数時間後、ノルウェーのアレクサンドラ・コロンタイに以下の電報をうった。

  1. 臨時政府を支持しない
  2. ケレンスキーは信用できない
  3. プロレタリアを武装させよ、
  4. ペトログラード市議会選挙の即時実施
  5. 他党とはいかなる和解もしない

という内容で、妥協せず、メンシェビキとは交渉しないという方針にレーニンの政治の本質がここに現れている。

ロマノフ朝の終焉

ドゥーマ臨時委員会はニコライ2世に自由に行動させてくれるよう訴えたが、革命の規模に気づいていなかった皇帝は訴えを無視し、武力を行使しようとして孤立した。

3月1日、軍最高司令官ミハイル・アレクセーエフ将軍は皇帝に、革命が起きれば戦争の不名誉な終結を意味する、後方で革命が起きているときに軍に冷静に戦争を遂行するのは不可能であると進言し、皇帝はこれにより、電報でロジャンコには国会組閣の承諾を、イヴァノフ将軍には首都への進軍中止を命じた。

立憲君主制によって体制を救おうとしていた臨時委員会委員長ミハイル・ロジャンコ、ルスキー将軍、アレクセーエフ将軍らは退位以外に反乱兵士を鎮圧するのは不可能だと結論し、皇帝に伝えると、3月2日午前10時45分、皇帝は自分がロシアに不幸をもたらしたと述べ、退位を考えてみるとのべた。さらにカフカース戦線のニコライ・ニコラエヴィッチ大公も退位に同意し、3月2日午後2時、皇帝も退位に応じた。皇帝は戦争での勝利のために愛国心から退位を承認したのであり、もし権力保持が皇帝の最大の関心であったならばドイツと講和し、ペトログラードとモスクワの反乱に前線の軍を派遣しただろうとパイプスは指摘している。

ニコライ2世は医者と相談し、アレクセイ皇太子の血友病が完治することはないと聞かされ、弟ミハイルに皇位を譲るとした。

3月3日、内閣はミハイルと協議した。ミハイルは、兄が断りなく皇位継承者に指名したことに当惑していたが、憲法制定会議が皇位授与が適切だと判断するまで、また憲法制定会議がそうしないならば皇位を辞退するとする詔書に署名した。

イスポルコムは3月3日、ニコライ・ニコラエヴィッチ大公を含めた皇族の逮捕を命じた。

3月4日、政府は警保局、保安課、憲兵部を解散した。警察は選出された公吏によって指揮され、ゼムストヴォと市会に責任を負う市民警に移った。

3月5日、イスポルコムは「反動的」新聞を閉鎖させた。二日後、イスポルコムの許可なしの新聞と定期刊行物の発行を禁止した。これは抗議をうけて撤回したが、社会主義知識人が崇高な民主的理念を公言しながら言論の自由を侵害しがちであることを示すものだった。

後継のないまま3月15日にニコライ2世は退位を表明し、ロマノフ朝は終焉した。ニコライは家族とツァールスコエ・セローに向かい、五ヶ月過ごした。この間、イギリスへの移住を画策したが、英国は一度は招致に同意したものの、労働党の反対をおそれて招致を撤回した。

全ロシア中央執行委員会

イスポルコムは、政府はイスポルコムの承認なしに重要な決定を行えないと主張し、連絡委員会を設置した。政府はこの連絡委員会の要求に全て応じた。3月19日、イスポルコムは、陸軍省、軍司令部にコミッサールを任命し、司令官の命令はコミッサールの承認なしに遂行されないとした。

ペトログラード・ソヴィエトは一ヶ月後には首都だけでなく全土に権能を及ぼすようになった。ペトログラード・ソヴィエトは地方都市のソビエトと前線部隊の代表を受け入れ、全ロシア労兵ソビエトとなり、イスポルコムは、全ロシア中央執行委員会と改称した。全ロシア中央委員は72人まで増やされ、メンシェヴィキ23人,エスエル22人,ボリシェビキ12人という結果になった。しかし農民は農民同盟を組織してソビエトとは距離をとっており、農民代表はいなかった。したがって、全ロシア労兵ソビエトは、農民とブルジョワをのぞいた国民の10-15%を代表していたにすぎなかった。

この時点ではボリシェビキはいまだ少数であった。ボリシェビキを除いて全ての政党が勝利するまでの戦争継続に賛同していた。広く行き渡った誤解に反して1917年2月にもそして夏の初めまでも、人々は戦争に反対していなかった。兵士の間でもボリシェビキは人気がなく、4月8日のソビエト兵士部会での選挙でボリシェビキは1議席も獲得できなかった。

四月危機

臨時政府は3月6日、同盟国との協定を維持して戦争を継続する姿勢を示した声明を発表した。この声明は連合国側から歓迎された。一方、ペトログラード・ソヴィエトが3月14日に「全世界の諸国民へ」と題して発表した声明は、「われわれは、自己の支配階級の侵略政策にすべての手段をもって対抗するであろう。そしてわれわれは、ヨーロッパの諸国民に、平和のための断乎たる協同行動を呼びかける」「ロシア人民がツァーリの専制権力を打倒したように、諸君の反専制的体制のクビキを投げすてよ」とし、臨時政府の姿勢との食い違いをみせた。

ソヴィエトの圧力により、臨時政府は3月28日にあらためて以下の内容の「戦争目的についての声明」(3.27声明)を発表した。「自由ロシアの目的は、他民族を支配することでもなく、彼らからその民族的な財産を奪取することでもなく、外国領土の暴力的奪取でもない。それは、諸民族の自決を基礎とした確固たる平和をうちたてることである。……この原則は、わが同盟国に対して負っている義務を完全に遵守しつつ……臨時政府の外交政策の基礎とされるであろう」。

ソヴィエトはこの臨時政府の声明を歓迎し、さらにこの声明を連合国政府に正式に通知するよう圧力をかけた。ミリュコフ外相は4月18日にこの声明を発送した。しかし彼は声明に「ミリュコフ覚書」を付し、その中で「遂行された革命が、共通の同盟した闘争におけるロシアの役割の弱化を招来する、と考える理由はいささかもない。全く逆に……決定的勝利まで世界戦争を遂行しようという全国民的志向は、強まっただけである」と解説した。

この「ミリュコフ覚書」は3.27声明の主旨とは明らかに異なっていたため、新聞で報じられるとともに労働者や兵士の激しい抗議デモ(四月危機)を呼び起こした。ミリュコフ外相とグチコフ陸海相は辞任を余儀なくされた。ペトログラード・ソヴィエトはそれにより政府への参加を決めた。

5月5日に成立した第一次連立政府は、もともと法相として入閣していたケレンスキーのほかに、ソヴィエト内のメンシェヴィキと社会革命党から入閣があり、ソヴィエトからの代表を4名含む構成となった。

ボリシェヴィキ

ボリシェヴィキは弾圧によって弱体化していたため、二月革命の過程で指導力を発揮することはできず、ソヴィエトにおいても少数派にとどまった。臨時政府やソヴィエトに対する姿勢に関しても革命当初は方針を明確に定めることができなかった。

3月12日(3月13日)に中央委員のカーメネフ、スターリン、ムラノフが流刑地からペトログラードに帰還すると、ボリシェヴィキの政策は臨時政府に対する条件付き支持・戦争継続の容認へと変化した。機関紙『プラウダ』には「臨時政府が旧体制の残滓と実際に闘う限り、それに対して革命的プロレタリアートの断乎たる支持が保証される」「軍隊と軍隊とが対峙しているときに、武器をしまって家路につくよう一方に提案するのは、最もばかげた政策であろう。……われわれは、銃弾には銃弾を、砲弾には砲弾をもって、自己の持場を固守するであろう」などといった論説が掲載された。

レーニンの帰国

「革命の商人」とよばれたアレクサンドル・パルヴスはドイツ帝国にロシア帝国を混乱させるための工作を提案し、これに賛同したドイツ帝国は、パルヴスに200万マルクを提供した。さらに亡命していたレーニンらを封印列車に乗せて帰国させ、敗北主義の宣伝を行わせた。封印列車には、イネッサ・アルマンド、ジノーヴィエフ一家、ラデック、数人のブントがのった。チューリヒの駅で見送りにきた支持者がインターナショナルを歌いだし、反対するデモ隊はレーニンらをスパイと呼んで非難した。これに続いて、二番列車にはマルトフ、アクセリロード、バラバーノヴァ、ルナチャルスキー、グリム、ソコーリニコフがのった。

4月3日(新暦4月16日)午後11時10分、亡命地スイスからドイツ政府の用意した封印列車で帰国したレーニンがペトログラードのフィンランド駅に到着した。事前に動員されていた群衆は、革命歌「ラ・マルセイエーズ」を歌って歓迎した。レーニンは、駅の外に準備してあった装甲車の上に登り、投光器でライトアップされた短い演説を行った。群衆の拍手喝采をうけながら、レーニンは「帝国主義の略奪戦争はヨーロッパ全土の内戦の始まりだ」「今にも帝国主義全体が崩壊することを予期できる」と演説した。

その後、レーニンはクシェシンスカ邸にあるボリシェヴィキ司令部へ急行し、2時間演説した。レーニンは、ツェレツェーリとチヘイゼのペトログラードソビエトは、日和見主義者、社会愛国主義者によるもので、ブルジョワの道具にすぎず、革命にいたらない。したがって、ペトログラードソビエトをプロレタリアの手に奪還しなければならない、したがって、革命のブルジョワ段階から社会主義段階への移行は、数年でなく、数週間で達成せなばならないと演説した。演説を聞いていた党員はこのような演説を予想しておらず、困惑し、茫然とした。革命による社会主義の統一が目標であって、分裂などおもいもよらなかった。

当時、レーニンはスターリン、カーメネフとも乖離があった。カーメネフは「プラウダ」で、戦争中に軍隊に武器を置けと要求はできないとして臨時政府に対して穏健な態度をとり、スターリンもキーンタール・ツィンメルヴァルトの原則に賛同するものには和解可能性があるとして運動の統一を要求していた。さらにチューリヒにいたレーニンが3月におくった「遠方よりの書簡」のなかの「臨時政府を攻撃せよ」という文をカーメネフとスターリンは削除して発表していた。

レーニンの過激な立場は、ボリシェヴィキなど周囲の思惑とかなり違っていた。4月4日の議会で、レーニンはあらゆる戦争努力の即時停止、臨時政府への拒絶、すべての権力をソビエトへ移転し、正規軍を廃して民兵団を創設すること、土地の国有化、ソビエトによる生産と分配の管理などを激しく主張した。レーニンの破壊的な主張に、大部分の出席者は憤激した。ボグダーノフは「狂人のたわごとだ」と叫び、古参のゴルデンベルグもレーニンの「分裂」の標語と、自ら社会民主主義の外に身を置こうとする態度を批判した。メンシェヴィキのツェレツェーリも批判したが、レーニンの提案は、非現実的で奇妙にすぎたため、反論が空回りした。臨時政府の多数は、レーニンはおしまいだとみなした。のちに「4月テーゼ」とよばれる文書も、現実と没交渉の者によって書かれたものという印象をあたえたにすぎなかった。

四月テーゼ

レーニンは『四月テーゼ』とのちに呼ばれる文書「現下の革命におけるプロレタリアートの任務について」を「プラウダ」に持ち込んだが、編集部は掲載を躊躇した。怒ったレーニンはジノヴィエフを引き連れて編集部のある建物の門をこじあけ、脅迫もまじえて4月7日に掲載させた。カーメネフはこの論文は文責はレーニンにあると冒頭に注をつけ、さらに「われわれ編集部にはこの文書は受け入れ難い」としるした。レーニンはこの文書において、ブルジョワ政府である臨時政府をいっさい支持しない、「祖国防衛」の拒否、全権力のソヴィエトへの移行を主張した。また、プロレタリアートと貧農の手に権力を渡す第二段階への前進、さらに、警察・軍隊・官僚の廃止、土地の国有化、労働者による工業生産管理を約束するボリシェヴィキこそプロレタリアの利益を代表する唯一の党であると主張した。

翌4月8日の首都の党委員会では、地方からも反対意見が多数でて、4月テーゼの採択を問う投票の結果は反対13、賛成2、棄権1で棄却された。

レーニンは挫けず、10日後の全ロシア党会議では、149人の代表者があつまるなか、レーニンの提議にカーメネフ、ルイコフは反対したが、ジノーヴィエフ、ブハーリン、スターリンが支持した。ここには、既存指導部の躊躇に対して不満をもっていた下部党員が、レーニンの決断力と力と意志でこころを奪う断固たるリーダーシップにひかれたこと、ミリュコーフの覚書では講和が遠くなっていくことに群衆がデモをして辞職を要求していたことなどが背景にあった。全ロシア党会議では戦争に関する決議についてはほぼ全員が賛成し、ソビエトへの権力移転の決議案は122票を獲得した。社会主義革命への即時前進への賛同は71人にとどまった。

このとき、レーニンは「社会民主主義」という語は裏切りの同義語だとこれを放棄し、「共産主義」を採用した。

レーニンはパリコミューンを持ち出してソビエトと同一視し、自身の主張に歴史的根拠をあたえたものの、党は、何を政治的に代表するのかについては首尾一貫した観念をもっておらず、ソビエトと憲法制定会議も同一視していた。10月以降、レーニンと党全体との不一致がさらに顕在化していく。

「ミリュコフ覚書」が引き起こした四月危機の影響もあり、この四月テーゼは4月24日から29日にかけて開かれたボリシェヴィキの党全国協議会で受け入れられ、党の公式見解となった。

自力で帰国したチェルノーフ、マルトフ、トロツキーや、シベリアからカーメネフやスターリンが戻り、戦争継続を弾劾すると、戦争に倦み疲れた大衆はこれを支持した。

「ミリュコフ覚書」が引き起こした四月危機の影響のなかでゲオルギー・リヴォフ政権が倒れ、5月はじめ連立内閣が組閣され、リヴォフは首相に残留したが。ソビエトを代表する6人が入閣した。

同時期にトロツキー帰国、レーニンのテーゼを自分のものとし「すべての権力をソビエトへ」とよびかける。レーニンはトロツキーと和解しようとしたが、トロツキーはボリシェヴィズムは過去のもので、新しい党が必要だと考えており、この時は合流しなかった。

荒れる農村

二月革命後、農村でも法と秩序が崩壊し、ロシアの多くの所領が農民に占拠され、地主は追い出され、暴行を受け、殺害された。革命前は地主は軍隊に守られていたが、いまや兵士は暴力の煽動者になっており、警察も存在しなかった。1917年夏の初めには、農民集会が開かれ、所領没収の投票が行われ、銃や鍬で武装した集団が荘園に向かい、しばしば家族に残忍な暴行を加えた。これはストルイピンがサラトフ県知事だった1905年に、数千人の農民が地主を警護する兵士によって殺されたことへの報復だと正当化された。

1917年5月末、「全ロシア農民会議」を自称するグループが樹立し、財産没収は合法であると宣言した。レーニンは農民を野蛮、封建的とみなして軽蔑していたが、歩調をあわせこれを支持した。

1917年6月、サラトフ近郊のポル・ポリャンシチナの荘園では、脱走兵に率られた暴徒が、ウラジミール・サブロフ公を斧でめったうちにした。これは1906年に12人の農民が吊るされたことへの報復だった。暴徒は、農民を理想化した作家トルストイのヤースナヤ・ポリャーナの家にもおしかけたが、家の明かりが消えていたので、すでに略奪をうけたと思い、別の荘園に向かった。

1917年夏、農民たちは、ボリス・ヴャゼムスキー公を捕まえ、私的裁判をひらいて前線送りを命じた。ヴャゼムスキー公は輸送中に暴徒から銃剣で刺され、首をはねられた。ヴャゼムスキー公は1906年の騒動のさい、数百人の農民を絞首刑にしたことへの報復だった。

このように農民は独自の革命をおこなっていた。

ボリシェヴィキの武装デモ問題

6月には、ヴォボルク地区の元内務大臣ピョートル・ドゥルノヴォ邸をアナキストが占拠、要塞化する。首都でもボリシェヴィキが兵士の不満を掻き立て続けた。

1917年6月の第一回全ロシアソビエト大会、822人の参加者うち、社会革命党285、メンシェヴィキ248、ボリシェヴィキは105人、ほか無所属の代議員も多数いた。メンシェヴィキのツェレツェーリが「現在、政権を自身に委ねてくれといえる政党はいない」と発言すると、レーニンはたちあがり、「その党は存在する。われわれは直ちに政権を掌握する準備ができている!」と発言した。敵意のこもった罵声と嘲笑によって彼の演説は中断したが、議論をきいていた水兵たちは拍手した。ケレンスキーは「レーニンはフランス革命を真似るようすすめる。ロシア国家を完全な崩壊にひきずりこもうとしている。もし反動勢力の支持をえて、われわれを殲滅することに成功すれば、あなたは独裁者のために席を用意することになるだろう」と批判した。会議では、レーニンの案は否決された。

6月9日にボリシェヴィキと工場委員会は翌日のデモのビラを撒いたが、そのスローガンは「ツァーリのドゥーマ打倒!」「内閣打倒!」「全権をソビエトへ!」「パンと講和と自由を!」といった攻撃的なものだった。首都の軍隊は、長年の工作ですでにボリシェヴィキに服従していた。チヘイゼはレーニンらはクーデタを扇動していると非難したが、ボリシェヴィキは、政府が労働者を武装解除し、軍の力を弱体化させるために陰謀をでっちあげたと反論した。しかし、ボリシェヴィキはデモがクーデタにいたることを当てにしていたのは明らかだったと歴史学者カレール・ダンコースは指摘する。

6月11日、ソビエトで、メンシェヴィキのダンとマルトフらは、デモの条件について、武装したデモ活動はソビエトの許可なしにはできないようにするべきだと要求し、ツェレツエーリがボリシェヴィキとその操縦下にある集団の武装解除を要求した。しかし、マルトフは「労働者階級の武装解除はできない」と反対したため、ボリシェヴィキはマルトフの弁護によって抗弁する必要がなくなった。半年後にメンシェヴィキは、ツェレツエーリの警告が現実に即したものであったことを確認することになる。

ケレンスキー攻勢の失敗

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七月蜂起(1917)。ユリウス暦7月4日のペトログラード

第一次連立政府で陸海相となったケレンスキーは、同盟諸国からの要求に応え、6月18日から、前線において大攻勢(ケレンスキー攻勢)を仕掛けた。

将軍たちは攻勢に伴う愛国主義的熱狂によって兵士たちの不満を抑えようとした。当初コルニーロフ麾下の第八軍は目覚ましい働きをみせたが、ドイツ軍がオーストリア軍救援に向かうとロシア軍はパニックに陥り、壊滅した。攻勢は数日で頓挫し、ドイツからの反攻に遭った。

七月蜂起とボリシェヴィキのドイツ資金疑惑

攻勢が行き詰まると兵士たちのあいだで政府に対する不信感はさらに強まった。さらにペトログラード守備隊のいくつかの部隊を前線に派遣するという政府の決定は、7月事件(七月蜂起)の引き金となった。これはソビエトとの協定を侵害する命令であり、ボリシェヴィキは猛烈なプロパガンダ活動を展開し、暴動を煽った。

ペトログラード機関銃連隊が6月30日に解体され、前線に送られることが通達された。ボリシェヴィキとアナキストは兵士を煽り、抗議集会を開いたが、ボリシェヴィキは時期尚早の蜂起が失敗することをおそれてもいた。


7月3日にペトログラード機関銃連隊がデモを行った。同7月3日遅く、カーメネフ、トロツキー、ジノヴィエフらは労働者部会を支配し、ソビエトへの権力移譲を宣言するという計画をたてた。労働者部会でジノヴィエフがソビエトの権力掌握を表明すると、メンシェヴィキとエスエルが退場し、残ったものですべての権力をソビエトへ移すことを決議した。

翌7月4日朝、ボリシェヴィキ中央委員会は反乱兵士を完全に武装させたうえでのデモを指令した。デモ隊はクシェシンスカヤ邸でのボリシェヴィキによる部隊の観閲をもってはじまり、早朝にフィンランドから戻ったレーニンは短い演説を行った。ボリシェヴィキの軍事組織に指揮された武装デモ隊は、タヴリーダ宮に向かい、部隊は首都の戦略的な地点を制圧した。デモ部隊は「すべての権力をソヴィエトへ!」をスローガンに行進を開始、タヴリーダ宮を包囲して数人の政治家を捕捉して、権力移転を要求した。

7月4日午後、武装デモ隊がタヴリーダ宮前に集まり、ボリシェヴィキ部隊が宮殿を接収し、権力奪取を発表しようと待ち構えていたとき、レーニンは臆し怯み、言葉を濁してしまい、これにより蜂起は失敗した。

一方の政府はボリシェヴィキのドイツとの取引(後述する資金提供疑惑)を報道機関に流した。その情報が急速に守備隊に伝わり、さらに午後遅く、政府軍の部隊が宮殿前に到着すると、反乱者は逃げ去り、こうして蜂起は終わった。

その後、数日間、政府に忠実な前線部隊によって市は占拠され、警察はボリシェヴィキ党員を国家叛逆罪および武装蜂起の廉で逮捕していった。政府はレーニンらの逮捕も命じた。

レーニンは潜伏先から「クーデタを企てる意図はなかった」と否認し、数日後、レーニンはジノヴィエフとともに変装して、フィンランドに逃げた。

事件は7月6日には終了した。

すでに6月19日にレーニンはフィンランド国境近くのボンチェ・ブルーエヴィチの別荘に避難していたが、レーニンが隠れ家から出てくるのは7月4日で、七月蜂起ではトロツキーが権力変更を要求し続けた。


七月蜂起についてボリシェヴィキは自然発生的な蜂起だと主張したが、ボリシェヴィキが数週間にわたって念入りに煽り立てたものだった。デモ部隊はボリシェヴィキの指令を待ったが、ボリシェヴィキは矛盾した指令を出し続け、混乱していた。

ボリシェヴィキは結局、武力行使の時はいまだいたらずと決定した。レーニン自身の行動もそうだが、優柔不断であった。

政府も、ソビエトから反対され、ボリシェヴィキへの法的な訴訟手続きをはじめなかった。ソビエトはボリシェヴィキへの対策が他の社会主義政党に及ぶことを危惧したのであった。

ボリシェヴィキのドイツからの資金提供疑惑

ボリシェヴィキが七月蜂起で優柔不断であったのは、レーニンらが敵国ドイツからの資金提供を受けているという疑惑に関する事実の公表に関するのではないかとダンコースは述べている。敵国からの資金提供は国家反逆罪にあたるとされていた。レーニンらがドイツから支援を受けていたことは、その政策を推進したドイツの外相リヒャルト・フォン・キュールマン自身がのちに明らかにしている。その支援額は、5000万ドイツ金マルク(600-1000万ドル)を超え、これは9トンの金塊を購入できる額だった。臨時政府はフランスの諜報機関からこの取引について報告を受けていた。

7月4日、臨時政府は事実の公表を報道しようとしていたが、発表の緊急性があるか躊躇していた。ボリシェヴィキを非合法化する訴訟の計画もあったが、法相ペレヴェルゼフとソビエト多数派が対立していた。法相は公表しようとしていた。ほとんどの新聞は政府の求めに応じて沈黙していたが、「ジヴォーエ・スローヴォ」が「スパイ団、レーニン、ハネツキとその一味」記事でレーニンたちは敵国から資金をもらっていると報道し、これはレーニンらにとって打撃だった。

ジノヴィエフは即座に、これは中傷であり、ヨーロッパ全域の労働者運動への攻撃であるとし、レーニンの名誉回復をおこなうと、ソビエトで演説した。反ボリシェヴィキ集団が「プラウダ」印刷所を攻撃、ボリシェヴィキ司令部を包囲した。政府は反乱兵を武装解除し、同時にボリシェヴィキ逮捕の命令を下し、レーニンとジノヴィエフはフィンランドへ逃亡、トロツキーらは逮捕された。メンシェビキのスハーノフは、レーニンの逃亡は共闘者を見捨てたことになり、汚点となったという。(のちスハーノフはスターリン政権で処刑された)

ケレンスキーは、レーニンのドイツ資金の件を発表しようとしたが、マルトフはレーニンは良心の呵責を感じない策謀家だが、国家反逆の徒ではないと弁護して、結局、臨時政府はレーニンへの調査を放棄した。

デモが失敗に終わるとボリシェヴィキの扇動によるものと見なされ、トロツキーやカーメネフは逮捕され、レーニンやジノヴィエフは地下に潜った。デモに参加した部隊は武装解除され、兵士たちは前線へ送られた。

レーニンは、七月蜂起により二月革命以来の二重権力状況は終わり、権力は決定的に反革命派へと移行した、と評価し、四月テーゼの「全権力をソヴィエトへ」というスローガンを放棄することを呼びかけた。このスローガンは権力の平和的移行を意味するものだったため、その放棄とは実質的には武装蜂起による権力奪取を意味した。ボリシェヴィキは7月末から8月はじめにかけて開かれた第六回党大会でレーニンの呼びかけに基づく決議を採択した。

7月蜂起で明らかになったのは、ボリシェヴィキと大衆の優柔不断ぶりであり、この事件以後、政府は優位にたつこととなり、レーニンらは破綻にひんした。

コルニーロフの反乱

第一次連立内閣は7月8日にリヴォフ首相が辞任したことで終わり、同月24日にケレンスキーを首相とする第二次連立内閣が成立した。この連立内閣は社会革命党とメンシェヴィキから多くの閣僚が選出され、カデットからの閣僚は4名にすぎないなど、社会主義者が主導権を握る構成となった。しかしケレンスキー内閣の政策はリヴォフ内閣とほとんど変わったところのないものだった。攻勢の失敗により保守派の支持を失い、七月蜂起後の弾圧により革命派からも支持されなくなったため、臨時政府の支持基盤はきわめて弱いものとなった。

7月18日に軍の最高総司令官に任命されたラーヴル・コルニーロフは、二月革命以後に獲得された兵士の権利を制限し、「有害分子」を追放することなどを政府に要求して保守派の支持を集めた。保守派の支持を得ようとしていたケレンスキーもコルニーロフの要求をすべて受け入れることはできず、両者は対立することになった。もともとケレンスキーは、右翼からの武力攻撃をおそれてコルニーロフに助けを求めたが、コルニーロフもクーデタを企てるのではないかとおそれていた。

臨時政府は憲法制定会議の開催を引き延ばしたあげく、8月9日にようやくその選挙を11月12日に、開会を11月28日に決めた。

コルニーロフが8月14日に国家会議に到着したとき、彼を救国者とみていた自由主義と保守派の政治家は熱狂的に歓迎した。

8月22日朝、ケレンスキーと面談したドゥーマ議員のウラジーミル・リヴォフ(ロシア語版、英語版)は、自分は軍部に近い公人を加えて政府を強化すべきと考えている有力な党を代表していると仄めかした。そのあと、モギリョフへ赴き、自分は政府の密使であるとのべ、コルニーロフに三つの選択肢をせまった。 1.ケレンスキーが独裁的権限を掌握すること、 2.コルニーロフを含む5人執政府、 3.コルニーロフが独裁者になること。 コルニーロフは、この選択はケレンスキーの提案だと思い込み3を承諾した。

8月24日、コルニーロフはアレクサンドル・クルイモフ(ロシア語版)将軍に対し、ペトログラードへ進撃して革命派の労働者や兵士を武装解除し、ソヴィエトを解散させることを命じた。翌日には政府に対して全権力の移譲を要求した。コルニーロフは、軍への革命勢力の圧力とドイツ軍に対処するために、内閣辞職と自分への全権移譲を求めた。

首都に戻ったリヴォフは、8月26日午後6時にケレンスキーに会い、今度は自分は最高司令官の使者であると装い、自分が作成した最後通牒(全権を最高司令官に委任することなどが書かれた)をみせた。驚いたケレンスキーはテレタイプで、リヴォフのふりをしてコルニーロフと会話し、コルニーロフが最後通牒を確認したため、ケレンスキーはコルニーロフの処分を決定した。ケレンスキーは閣議を招集して、反革命クーデターを粉砕するために独裁権限を要求し、早8月27日朝、コルニーロフに最高司令官解任を伝えた。

同じ頃、8月27日午前2:40の打電でコルニーロフはサヴィンコフに8月28日の夕方に向けペトログラードを包囲すべき集結しているとして、首都に戒厳令を出すよう求めた。コルニーロフは予期されるボリシェビキの蜂起を政府が鎮圧するのを助けるために動いていた。

サヴィンコフは両者を仲裁したが、ケレンスキーは聞き入れず、コルニーロフを非難する声明を報道した。コルニーロフはこれに怒り、ケレンスキーはボリシェヴィキに捕らえられているのでなく、軍の信望を貶める卑劣な策士であるとみなして、コルニーロフは軍に、ケレンスキーは嘘つきであると述べ、自分のもとに結集し、ドイツ軍を撃退し、憲法制定会議の召集を誓った。

8月27日、コルニーロフは首都へ進軍を開始した。

8月27日午後7時、最高司令官解任の電報を受け取った軍司令部は困惑し、偽物かどうか疑ったが、すでに政府はボリシェヴィキの手に落ちたと結論した。

カデットの閣僚はコルニーロフに連帯して辞任し、軍の各方面軍の総司令官もコルニーロフを支持した。ケレンスキーはソヴィエトに対して無条件支持を要請した。8月28日、ソヴィエトはこれに応じて対反革命人民闘争委員会をつくった。弾圧を受けてきたボリシェヴィキも委員会に参加してコルニーロフと闘う姿勢を示した。左派政党、ボリシェヴィキ、メンシェヴィキ、エスエルは総動員体制に入り、コルニーロフの陰謀を打ち砕くと宣言した。

ペトログラードに接近した反乱軍の兵士たちは、ソヴィエトを支持する労働者や兵士の説得を受け、将校の命令に従わなくなった。反乱軍は一発の銃弾も撃つことなく解体し、コルニーロフの反乱(ロシア語版、英語版)は失敗に終わった。クルイモフは自殺し、コルニーロフは9月1日(9月12日)に逮捕された。

叛乱後

カデットの閣僚が辞任して第二次連立内閣が崩壊したため、ケレンスキーは9月1日に5人からなる執政府を暫定的に作り、正式な連立内閣の成立を目指した。ソヴィエトは9月14日から22日にかけて「民主主義会議」を開いて権力の問題を討議し、有産階級代表との連立政府をつくること、コルニーロフ反乱に加担した分子を排除すること、カデットを排除すること、という三点を決議した。しかし有産階級代表との連立政府とは実質的にはカデットとの連立政府だったため、この三つの決議は互いに矛盾していた。9月25日に成立した第三次連立政府(第4次連立政府)はカデットも含むものになったが、連立政府の権威はもはやなかった。

ボリシェヴィキの勃興

コルニーロフの反乱によって、政府が国をまとめる力をもたず、革命権力を保持する力がないことを明らかにした。コルニーロフの陰謀については、クーデタに至るような証拠も共謀者もおらず、むしろ、コルニーロフの信用を失墜させるためのケレンスキーの陰謀があった。しかし、ケレンスキーは結果として、保守派からも社会主義側からも疎んじられることとなり、この事件の受益者はボリシェヴィキだった。コルニーロフ事件はボリシェヴィキにとっては奇跡的な効果があり、政治の舞台に再登場することになった。ソビエト指導部と軍は、レーニン支持へまわり、これに応じてメンシェヴィキとエスエルも急進化した。

8月、政府はイスポルコムの圧力に応じて投獄されていたボリシェヴィキを釈放した。しかも、ケレンスキーはコルニーロフ軍との応戦のため、ボリシェヴィキに協力を求め、赤衛隊に4万挺の銃がわたった。軍に対してケレンスキーは有能な指揮官を解任したり、逮捕したこと、左翼に迎合することなどが理由となり、軍はケレンスキーを軽蔑した。ボリシェヴィキの10月クーデタの時も、軍はケレンスキーの救援要請に応えなかった。

フィンランドから事態を観察していたレーニンはこれを機会にケレンスキーの力を決定的に弱体化させようとした。レーニンは、ミリュコーフの逮捕、労働者への武器の分配、ドゥーマ解散、労働者による工場管理、土地の即時分配、ブルジョワ新聞の即時発行停止を、「プラウダ」を引き継いだ「ラボーチイ・プーチ」で繰り返し論じた

十月革命

ケレンスキーのロシア共和国宣言

9月1日、ケレンスキーはロシア共和国を宣言した。ロシア共和国評議会(ロシア語版)では、議員308のうち、エスエル120議席、カデット75議席、メンシェヴィキ60議席、ボリシェヴィキ60議席で、左傾化がきわだった。プレハーノフは年齢と病気であまり関与できず、レーニンはまだ慎重に隠れていた。議員だったトロツキーは「すべての権力をソビエトへ」と宣言し、レーニンの国家反逆と封印列車などのドイツとの関係が蒸し返され、罵詈雑言が飛び交い、ボリシェヴィキは議場から退場した。

憲法制定議会の選挙は11月12日に開催すると決定された。

ボリシェヴィキの武装蜂起計画

ソヴィエト内部ではコルニーロフの反乱以後ボリシェヴィキへの支持が急速に高まった。1917年6月の第一回全ロシアソビエト大会では、エスエル285議席、メンシェヴィキ248議席、ボリシェヴィキは105議席だったが、夏頃にはボリシェヴィキの党員は25万人にもなり、9月のソビエトでは半分の議席を獲得した。1917年8月末から9月にかけ、ペトログラードとモスクワのソヴィエトでボリシェヴィキ提出の決議が採択され、ボリシェヴィキ中心の執行部が選出された。

レーニンは、憲法制定会議が開かれることでケレンスキーによる正統政府が樹立することを危惧し、議会制打倒のための武装蜂起による権力奪取をボリシェヴィキの中央委員会に提案した。憲法制定会議のための民主的選挙を行うと、国民の大半である農民から支持されている社会革命党の勝利は明らかであった。レーニンは、選挙でボリシェヴィキが負ければ権力奪取は難しくなるので、もはや武力行使しか道はない、それも憲法制定会議の開会前に武装蜂起しなければならないと考えた。

9月14日、フィンランドにいたレーニンは「ラボーチイ・プーチ」で「すべての権力をソビエトへ」と主張した。9月12日と14日の中央委員会への密書でレーニンは、ボリシェヴィキによる権力奪取と迅速な武装蜂起を指示した。しかし、カーメネフとジノヴィエフは第二回ソビエト大会まで待つべきだと答えた。それに対してレーニンは「ナイーヴだ」「それを待つ革命などない」と退けたが、中央委員会の誰も即時蜂起に賛成しなかったため、レーニンは怒り狂った。

9月25日のペトログラード執行委員会の選挙で44議席のうち3分の2をボリシェヴィキが占め、メンシェヴィキは5議席、かつて多数派だった国際派メンシェヴィキは無議席で、9月21日のモスクワでの選挙でもボリシェヴィキが多数となった。レーニンはメンシェヴィキとエスエルの影響力に配慮して、ペトログラードソビエトがブルジョワと絶縁し、扇動の自由を制限なく受け入れられるならば支持してもよいと妥協案を論文で発表するが、すぐに「革命の平和的展開が可能であった時はすでに過ぎ去った」とものべた

憲法制定会議の議員選出のための11月の選挙に向けたつなぎとしての会議において、ボリシェヴィキ内部で意見がわかれた。スターリンとトロツキーは選挙のボイコットを、カーメネフとルイコフら多数派は選挙への参加を主張した。フィンランドでそれを聞いたレーニンは激怒し、そのような会議は即時包囲し、悪党どもを全員逮捕して、監獄にぶちこまなければならないと手紙で伝えた。のちにブハーリンは、レーニンの手紙に委員たちは唖然としたと回想している。結局、委員はレーニンの手紙を破棄した。

レーニンはクーデターがソビエトの名のもとに遂行されることを望んでいた。しかし、ソビエト大会で通常の民主的な選挙を行えばボリシェヴィキが少数になるのは確実だったため、トロツキーらは、ボリシェヴィキが支配できるようになるためにエスエル左派と「北部地方委員会」を結成した。ボリシェヴィキ11人、エスエル左派6人で組織された北部地方委員会は、イスポルコムの権威を横奪して、ソビエトと軍委員会に対して代表を送るよう要請した。しかしこれはソビエト政府に対するクーデターであり、イスポルコムは、専横にでたらめに選出された北部地方委員会の権限を認めないと非難した。しかし、9月26日、ボリシェヴィキの認可のもとで選出される第二回大会を10月20日に招集することにイスポルコムは賛同した。予定は地方議員が首都に到着する時間を考慮して10月25日に延期された。結果としてイスポルコムは、ボリシェヴィキが望むものを与え、クーデターの合法化を許すことになった。

レーニンはこれ以上待てない、待つことは犯罪で危険だと急かし、9月中に各都市のソビエトがボリシェヴィキの手にうつった。もはや「すべての権力をソビエトへ」は実現され、党が行動するときだった。

フィンランドのレーニンは9月末には、ソビエトで過半数をえた今、ボリシェヴィキによって権力奪取をしなければならないと同志に伝え、司令部をただちに組織し、連隊を重要地点へ派遣し、電信電話局を占拠、すべての工場とすべての司令部をつなげるよう指示した。レーニンは9月29日の「危機は熟した」という中央委員会への手紙で「待つことは、白痴であるか裏切りだ」と武装蜂起をあらためて主張した。ボリシェヴィキはレーニンにフィンランドにとどまるよう説得したが、レーニンは聞かず、秘密裏にヴィボルクへいき、そこから指示をだした。

ボリシェヴィキは表向きは議会へ参加すると発表した。10月4日「ラボーチイ・プーチ」で、「ボリシェヴィキは、これまで一度も憲法制定会議に反対したことはない」とするおそらくジノーヴィエフによる無署名の記事が掲載された。

レーニンは10月7日には憲法制定会議を信じるのは罠であり、プロレタリアの大義への裏切りだとした。

首都に迫るドイツ軍に対して、ケレンスキーはいざとなれば首都をモスクワに移転する計画をたて、首都守備隊を前線におくると指令したが、ペトログラード・ソビエト執行委員会(イスポルコム)は異議をとなえた。レーニンは、ケレンスキーがドイツ軍を利用してボリシェヴィキを弱体化させることをおそれていた。

また、ケレンスキーはボリシェヴィキによる武装蜂起の可能性の報告も受けていたが、レーニンにそれを実現する力はないと過小評価しており、また右派の武力行使をおそれてもいた。

革命防衛委員会、軍事革命委員会の設置

10月9日、メンシェヴィキがソビエトに革命防衛委員会の設立を提案した。ボリシェヴィキは、革命防衛委員会を、政府の統御外にある武装勢力として編成させることで、武装蜂起をソビエトの名のもとで実行できると考え、ドイツ軍だけでなく国内の反革命分子に対しても市民の安全を守るための革命防衛委員会を提議した。スターリンは、「革命(ボリシェヴィキ党)はその軌道に、不確かで躊躇する分子を引き入れることをより容易にするために、その攻撃的な行動を<防衛>という煙幕で覆った。」とのちに述べている。革命防衛委員会設立案をソビエト総会は是認した。

革命防衛委員会は軍事革命委員会に改称され、10月12日、ペトログラード・ソヴィエトに軍事革命委員会(ロシア語版)が設立された。軍事革命委員会は元々はドイツ軍からの首都防衛を目的としてメンシェヴィキが提案したものだったが、武装蜂起を画策していたボリシェヴィキはその利用価値を見出した。ボリシェヴィキは、この委員会は、外敵だけでなく「内部の敵」への防衛も含むとし、政権の諸機関はこの委員会に対してなんの権限ももたず、ソビエトだけが権限を持ち、イスポルコムが軍事全権を集中すると提案した。これに対してメンシェヴィキ議員が「権力奪取のための司令部」ではないかと疑念を出すと、トロツキーはそれはケレンスキーの名における意見か、それともオフラーナの名における表明かと尋ね返し、議場は熱狂し、圧倒的多数で法案は可決した。トロツキーは「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説し、あからさまに武装蜂起の方針を認めた。

メンシェヴィキは軍事革命委員会への参加を拒否し、委員会の構成メンバーはボリシェヴィキ48名、社会革命党左派14名、アナーキスト4名となった。前後して軍の各部隊が次々にペトログラード・ソヴィエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなくソヴィエトの指示に従うことを決めた。

こうしてボリシェヴィキは政府を軍単位で切り離す手段を保有することになり、合法的に軍単位に指令を出すことが可能になった。

10月10日、武装蜂起方針の決定

業を煮やしたレーニンは、10月10日、変装してペトログラードの中央委員会に登場して、武装蜂起を主張した。この10月10日のスハーノフ宅での会議でのレーニンによるクーデターの即時実行という主張に対して、カーメネフとジノヴィエフは、クーデタに失敗すればわれわれは殺されるとし、合法的に多数を獲得する憲法制定会議を数週間待つべきだと反対した。武力蜂起が必要と考えていたトロツキーは10月25日の第二回ソビエト大会以降でよいとのべたが、レーニンはそれ以前の蜂起を主張した。レーニンに対しては、カーメネフ、ノギーン、ウリツキー、ルイコフ、ジノーヴォエフさえも反対したが、中央委員会は10対2でレーニンの武装蜂起案を可決した。この日、レーニンは学習ノートに「武装蜂起は不可避であり、その機は熟している」と書き、中央委員会はしかるべき行動すると走り書きした。

即時武装蜂起に同意できなかったカーメネフは委員を辞職し、10月11日、カーメネフとジノーヴォエフはボリシェヴィキの諸機関に決定への異議を申し立てる手紙をおくったが、これは党規律への違反だった。さらに二人は10月18日にゴーリキーの新聞に、現時点の武装蜂起は絶望的であり、自暴自棄で、革命に破滅をもたらすという書簡を掲載した。これにより、武装蜂起計画が公表されることとなったが、それがいつなのか、本気でするのか、といったことは不明であった。レーニンは激怒し、二人の「スト破り」を党から追放せよと中央委員会にもとめ、10月19-21日に「同志への手紙」を掲載した。レーニンは計画を漏洩した彼らは裏切り者で、もはや同志ではないと述べたが、党からの除籍ではなく、処罰は叱責にとどめた。

10月16日の拡大中央委員会会議でも武装蜂起の方針が再確認された。臨時政府は、ボリシェヴィキの武装蜂起計画を耳にすると、軍事革命委員の指導者の逮捕を考えた。

ドイツ軍の西エストニア諸島占領(10月11日〜20日)

10月11日から20日にかけて、ドイツ軍はアルビオン作戦でロシア臨時政府の統治下にあったバルト海とリガ湾の間にある西エストニア諸島のうちサーレマー島、ヒーウマー島、ムフ島を占領した。

これに対して、ロシア軍参謀本部は、首都をモスクワへ疎開することを提案した。

その後、ドイツは1918年にイギリス・フランス・ロシア・日本などの連合国に敗北した。

10月21日

1917年10月21日、レーニンは、ヘルシンキの労働者兵士水兵委員会議長スミルガに、フィンランド軍とバルチック艦隊の確保を指示した。

10月22日、首都守備隊の権限掌握

10月21日から22日にかけて、軍事革命委員会は首都守備隊を支配下におくと通達した。首都守備隊の24万のうちボリシェヴィキ支持者は1万ほどだったが、政府が擁する部隊はそれよりさらに少なかった。この通達は、クーデターの帰趨を決定した最初の、そして最も決定的な処置であった。

軍事革命委員会は、首都守備隊委員会の集会を召集し、そこでトロツキーは反革命の脅威をのべ、守備隊委員会は軍事革命委員会を支持するよう促し、集会では、前線と後方が密接に連携するという無害な決議が採択された。

次いで軍事革命委員会は、参謀本部に赴き、「守備隊の決定により、参謀本部の命令は今後、軍事革命委員会の連署をもってのみ効力を有する」と通告した。司令官がボリシェヴィキを逮捕するぞと脅すと、ボリシェヴィキは緊急集会で、参謀本部は反革命勢力だと決議し、守備隊は、参謀本部の命令に、軍事革命委員会によって確証されなければ従わないことになった。トロツキーは「参謀本部は反革命勢力の道具となった。兵士諸君、革命の防衛は、唯一、軍事革命委員会のみの権威の下にある諸君の肩にかかっている」とソビエト臨時会議において演説し、これが政府と参謀本部への宣戦布告となった。

ボリシェヴィキの軍事組織の司令官ポドヴォイスキーは、これらの措置が、武装蜂起の始まりだったとする。クーデターを知った参謀長は、ソビエトに抗議した。

一方、ケレンスキーは軍事革命委員会の逮捕を命じたが、閣僚は交渉による解決を求めており、逮捕は行わなかった。また、ケレンスキーは、7月事件のときにボリシェヴィキを鎮圧した軍を思い出し、軍と右翼の反革命をおそれてもいた。当時、首都には15000人の将校がいたが、部隊動員の措置はとられなかった。

ケレンスキーはコサックに助けを求めたが、ボリシェビキによってコサックの動きは麻痺した。10月22日夕刻、ケレンスキーは士官学校の学生を用いようとしたが、すでにボリシェビキによって宣伝工作がすんでおり、政府の命令にしたがうのをためらった。10月24日になって、ようやく士官候補生は警備のため配置されたが、分散しており、援軍としてよばれた部隊は政府命令をソビエトに確認するよう求めた。

10月23日

10月23日、軍事革命委員会は各守備隊に「すべての権力は軍事革命委員会にある。各守備隊は軍事革命委員会の命令に従わなければならない」と通達し、命令をうけた部隊が、政府によって閉鎖されていた「プラウダ」を再開させた。ケレンスキーはこれを禁止するが、同時に、右派の新聞も禁止した。これにより、ボリシェヴィキの動きについて報道がされることはなくなった。さらにケレンスキーは軍事革命委員の逮捕を命じたが、法相は挑発になると反対した。

他方、コミッサールにより指導された水兵は電信局を占拠した。ケレンスキーは士官学校生を派遣し、水兵を追い出して奪還し、ボリシェビキ司令部のスモーリヌイ学院の回線も切られた。

10月24日〜25日未明、要衝制圧

10月24日(グレゴリオ暦11月6日)、レーニンは「政府をたたきのめさなければならない。行動を遅らせることは死に等しい」と号令をかけ、トロツキーら軍事革命委員会は、赤衛隊に、鉄道、電力会社、郵便、電信、銀行、街路と橋梁の掌握を命じた。

他方、ケレンスキー政府の方では、10月24日朝、軍士官学校生(ユンケル)が要衝守備の任務につき、政府の予防措置を受けて、婦人決死隊140人、多少のコサック兵、自転車部隊、40人の傷痍軍人ら2,3個部隊が冬宮へむかい、ボリシェヴィキのコミッサールへの逮捕命令が政府から出された。ネヴァ川にかかる橋はボリシェヴィキ党の兵士と労働者が引き上げていた。危機的な状況になることを察知した人々は帰宅していき、10月24日午後2時半には周囲の街路から人はいなくなった。

逮捕状が出ていたため、党員マルガリータ・フォファノワの家に隠れていたレーニンは、軍事委員会が蜂起に失敗するのではないかとおそれていた。首都に潜伏していたレーニンは10月24日夕方、中央委員会への手紙で「蜂起を遅らすことは破滅だ。すべてが危機一髪である」と不安まじりに命じた。

10月24日夜9時、レーニンは労働者服を着て、眼鏡をかけ、鬘をつけて変装して、軍事委員会とボリシェヴィキ本部のあるスモーリヌイ学院に向かった。陸軍士官候補生から身分証提示を求められたが、レーニンの護衛エイノ・ラーヒアが酔っ払いのふりをしてごまかした。夜のあいだ、レーニンは伝令をどなりつけ、側近を派遣し、発表する声明を急いでつくっていた。

10月24日~25日にかけての夜のうちに、ボリシェヴィキは前哨隊を配備するだけで要衝を掌握した。夜のうちに、赤衛兵の小集団が市内の要衝を制圧していき、夜明け前には、冬宮近くのニコライ橋以外のネヴァ川にかかる橋、冬宮の対岸にあり、冬宮を射程におさめる砲台のあるペトロパヴロフスク要塞を戦闘なしにボリシェヴィキは掌握した。

10月25日午前6時に国営銀行が陥落し、続いて中央電話局、中央郵便局、電信ビルが陥落し、午前8時までにすべての鉄道駅をボリシェヴィキは奪取した。軍事革命委員会が参謀本部に入ると、そこにいた職員に退却を命じると職員たちは立ち去り、こうして参謀本部の奪取も完了した。

臨時政府には35000人の守備隊がいたが、彼らはボリシェヴィキと戦う気がなかった。宮殿を守備していたのはコサック兵二個中隊の馬数百頭、オラニエンバウム士官学校の士官候補生220人、自転車部隊40人、田舎からやってきた少女で構成された女性兵士200人だけだった。士官学校生の警備隊は、共産主義者分遣隊が退去を勧告すると、抵抗することなく従い、銃撃戦もなかった。

こうして武装蜂起はおどろくべき平穏さで展開した。

10月25日(新暦11月7日)

10月25日グレゴリオ暦11月7日)朝、レーニンはスモーリヌイのボリシェヴィキ本部で軍事委員会の名での宣言文を起草した。それは「臨時政府は打倒された。政府の権力は、ペトログラード労兵ソヴィエトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備軍の先頭に立っている軍事革命委員会に移った。人民がそのために闘ってきた諸課題-民主的講和の即刻の提案、地主的土地所有の廃止、生産への労働者の統制、ソビエト政府の形成ーこれらの課題は確保された。労働者、兵士、そして農民の革命、万歳!」といった内容だった。レーニンにとってクーデタの完全な成功を示すことが死活問題だった。パイプスは、この文書はボリシェヴィキの布告のなかで最高位を占めるものであるが、ボリシェヴィキ中央委員会をのぞいて、誰も正当とみとめていなかった一機関(軍事革命委員会)が、最高権力を掌握したと宣言したもので、ペトログラードソビエトは、ドイツ軍からの防衛のために軍事革命委員会を設立したのであり、臨時政府を倒すためではなかったと指摘している。

10月25日午前9時、レーニンは臨時政府に降伏を要求したが、返答はなかった。ボリシェヴィキはケレンスキー首相を拘束しようとはしなかったが、宮殿の周囲の車は使えず、士官が用意した車はピアース・アローのオープンカーだったが、ケレンスキーはそれに乗り脱出した。

10月25日午前10時、鐘をならし、声明が全都市で読み上げられ、無線で地方まで伝達された。

10月25日正午頃、臨時政府閣僚は冬宮で会議をひらき、降伏拒否を決めた。レーニンはソビエト大会を予定の正午から午後3時に延期させた。

クーデターは誰からも承認されていたわけではなく、また、暴力的衝突もこの時点ではとくに発生しておらず、市民は心に留めることさえなかった。10月25日、市民の生活は正常どおりで、一握りの関係者をのぞいて、首都が武装したボリシェヴィキによって掌握されたことを知っているものはいなかった。首都の証券取引所の株価は安定しており、富裕層にもパニックはなかった。

第2回全ロシア労働者・兵士代表ソヴィエト大会

ボリシェヴィキが支配するイスポルコムは10月25日に第二回ソビエト大会を開催すると発表した。

10月25日午後3時から第2回全ロシア労働者・兵士代表ソヴィエト大会が開催され、最高幹部会議選挙では25人のうち14人がボリシェヴィキとなり、議長にはカーメネフが就任した。

ソビエト大会でレーニンは勝利宣言をした。しかし、まだ臨時政府は打倒されていなかったし、冬宮も陥落していなかったので、これがソビエト政権がついた最初の大嘘であるとセベスチェンは指摘する。

レーニン不在時には議長を任じていたカーメネフがクーデタあとの午後、ケレンスキー政府が導入した前線兵士に対する死刑制度の停止を指令した。するとレーニンは「これは重大な過ちだ。許し難い軟弱さだ。銃殺隊なしに革命はなしとげえない」と激怒した。レーニンは、権力が自分の指から滑り落ちるのをおそれ、情けをみせすぎまいと決意していた。しかし、革命の初日から指令を撤回するのは悪印象だという意見があり、レーニンは、他に方法がない場合、黙って銃殺隊を使おう、それを大声でいうことなしに、と答えた。こうしてレーニンは指導者としてまだ数時間たってないうちから、テロルによる支配の基礎を敷いた。

ボリシェヴィキは代表の割り当てを無視し、勝手に選挙区をたてた。他党はそれを告発したが、ボリシェヴィキの権勢を抑えるには遅すぎた。

ペトログラード市民は革命が起きていることを知らず、銀行、店舗、劇場、ナイトクラブ、コンサートホールは営業していたし、工場も操業し、路面電車も走っていた。

砲撃

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防護巡洋艦アヴローラ
十月革命に際して冬宮を砲撃(空砲)し、革命の成功に貢献したとされる。プロパガンダ映画『十月』ではその場面も描かれる。日露戦争における日本海海戦にも参加しており、撃沈または鹵獲を免れた数少ない艦の一つであった。現在はサンクトペテルブルクのネヴァ川に保存されている。

10月25日午後6時半、ボリシェヴィキは巡洋艦アヴローラとアムールに冬宮の対岸に停泊を命じた。それに先立ち、レーニンはペトロパヴロフスク要塞に宮殿砲撃を命じたが、重砲は手入れもされておらず、砲弾も見つからなかった。また、要塞の旗竿に掲げるという赤いランタンも見つからず、要塞司令官ブラゴンラヴォフが街に買いに出たが、紫のランタンしかみつからず、さらにそれを旗竿に取り付けることもできなかった。

午後6時40分、ボリシェヴィキは最後通告を発したが、臨時政府はそれを拒否し、ボルシチ、蒸し魚、アーティチョークなどの夕食を食べるために食卓についた。兵士たちはタバコを吸い、酒で酔っ払っていたし、多くの兵士が離脱し、どこかへ去っており、宮殿を守備するために残ったのは250人ほどだった。臨時政府はもし自分たちが武力で打倒されればボリシェヴィキは非難されるだろうと想定し、楽観していた。レーニンは閣僚たちが逮捕されるまでソビエト大会を開こうとしなかったので、議員たちはあてもなくうろうろ動き回っていた。

午後9時40分、アヴローラが空砲を撃つと、閣僚らは床に伏せた。アヴローラの空砲は、十月革命の神話において際立つ役割をつとめるのにそれで十分だった。

午後10時、ペトロパヴロフスク要塞からの砲撃で35発が発射されたが、宮殿に命中したのは2発だけだった。冬宮の防衛部隊は、救援隊が到着しないので、退散しはじめた。軍士官学校生(ユンケル)たちは抵抗しようとしたが、流血を好まなかった閣僚たちは降伏を命じた。

10月26日

10月25日午後10時半、蜂起と並行して第二回全国労働者・兵士代表ソヴィエト大会がスモーリヌイ講堂で再開された。

10月26日(新暦11月8日)午前1時、ソヴィエト大会でメンシェヴィキとエスエルはクーデターを非難し、臨時政府と交渉すべきだと主張した。

10月26日午前2時、オフセーエンコが冬宮に入り、閣僚たちに逮捕を通告した。午前2時10分、閣僚たちは逮捕され、ペトロパヴフスク要塞へ護送された。冬宮からケレンスキーが逃れたため、蜂起は流血なしで成功した。臨時政府は、軍のどの部隊をも動かすことはできなかった。この時点での死傷者数は5,6人、負傷者20人弱で、いずれも双方の砲火に巻き込まれた犠牲者だった。

10月26日午前3時10分、議長カーメネフが政府閣僚の逮捕を発表した。ソビエト大会でレーニンは武力攻撃を非難され、ほかの社会主義集団は「犯罪的な権力奪取」に自分たちは無関係だと主張し、議場を去った。

10月26日午前5時頃、大会でトロツキーは「諸君は無惨な破産者であり、君たちの役割は終った。君たちが行くべきところに行きたまえ、歴史の屑かごの中へ(歴史のゴミの山に)」とメンシェヴィキに対して侮辱しつつ演説した。

10月26日の第二回全ロシアソヴィエト大会でボリシェヴィキは739議席中、338議席しか占めなかったが、社会革命党右派やメンシェヴィキが蜂起に反対し退席したため、残った社会革命党中央派・左派に対してボリシェヴィキは多数派を占めることになった。セベスチェンは、もしほかの社会主義集団が強い反対勢力として団結を保っていれば、レーニンの独裁体制を阻止できたかもしれなかったし、彼らが議場を去ったのは致命的な過ちだったと述べる。

布告

10月26日午前7時頃、レーニンが大会に現れ、「平和に関する布告」「土地についての布告」を発表した。「平和に関する布告」では「無賠償、無併合」というメンシェヴィキの案を採用し、「民族自決」に基づく講和を提案した。これは帝政ロシアが締結した条約の履行を無効化するものだった。

10月26日、軍事革命委員会は反革命的な新聞の印刷所に水兵を急行させ、印刷物を押収し、焼き払えと命令した。なお、帝政はこうした焚書はしなかったと歴史学者カレール・ダンコースは指摘する。 「ブルジョワ新聞」が数時間で消え、軍事革命委員会は「反革命分子」の多数を逮捕していった。マルトフは合法性に立ち戻れと抗議したが、ボリシェヴィキから回答はなかった。

10月27日、人民委員会議の設立

冬宮占領を待ち、大会は権力のソヴィエトへの移行を宣言した。10月27日(新暦11月9日)、大会は新しい政府としてレーニンを議長とする「人民委員会議」(ソヴナルコム)を設立し、各地のソビエトを代表すると主張した。

人民委員会議は連日続き、レーニンによって秩序だてられていった。レーニンは遅刻を嫌い、半時間おくれると5ルーブル、1時間遅れると10ルーブルの罰金制度を導入し、これをすべての政府機関に導入した。さらに、正当な理由なく10分遅刻すると譴責処分、2度目は減給1日、3度目は新聞上での公開譴責。15分以上の遅刻は新聞上での公開譴責、非番日の強制労働処分、という規則を導入した。レーニンはまた会議での演説時間を厳しく制限した。会議中の私語、集中していない委員がいると、レーニンは演説者に怒りのメモを渡した。速記者に話しかけた秘書リディヤに「追い出すぞ」とメッセージをわたすほど厳格だった。

人民委員の大部分は作家、煽動家、労働組合活動家、陰謀家で、専門的な行政の知識をもつものはいなかった。人事はいきあたりばったりだった。ミハイル・ペスコフスキーが、ロンドンに留学したとき金融学の授業を受けたことがあると財政人民委員のメンジンスキーに話すと、その後、国立銀行総裁に任命された。ペスコフスキーは任命の撤回を頼んだが、メンジンスキーは拒絶した。その後メンジンスキーはチェーカーの幹部になっている。

言論弾圧

レーニンは武装蜂起の数週間前の9月15日には党機関紙で、新聞の自由を称賛し、ボリシェヴィキが政権獲得後は大幅な新聞の自由を保証すると約束していた。しかし、権力を掌握した10月25日から二日目の10月27日に出した新聞に関する布告で「いかなる新聞も、人民委員会議指令に対する反対をそそのかすか、事実への中傷的な歪曲で混乱の種をまいた場合、閉鎖される可能性がある」と告示し、さっそくレーニンは出版物の検閲をはじめ、野党の新聞の閉鎖を命じた。これは緊急措置であり、新秩序が強固に確立され次第、措置は解除され、新聞には全面的自由が認められる」と約束されたものの、言論統制は続き、それどころか対立勢力との内戦が開始してからはそれが徹底された。こうして、国家が新聞のすべての所有権を獲得するとともに、党官僚による検閲制度が確立した。

反革命的な出版機関の閉鎖を命じたこの布告はアナトリー・ルナチャルスキーが書き、レーニンが署名したもので、この布告によりボリシェヴィキとエスエル左派の機関紙以外のすべての出版が禁止された。しかし、この布告は中央委員会の承認をえていなかった。

10月28日、立憲民主党の新聞が閉鎖された。赤衛兵が印刷機をつぶし、あるいは没収した。著名な編集者や記者は逮捕された。社会革命党の「人民の意思」は停刊。反対派の新聞は地下に追われた。とはいえ、新聞による多少の批判は短期間だけゆるされた。

こうした言論の自由の縮小に対して、党員から批判されると、レーニンは「ブルジョワ新聞は、爆弾や銃のように危険な武器だ」と答えた。

しかし、ボリシェヴィキはこの布告が反発をよぶことを了解していたため、ロシア帝国国家基本法87条を雛形とした「法令の裁可と公布の手続きに関して」を出して、人民委員会議に布告による立法行為を認定させた。

11月4日の中央執行委員会(CEC)で、エスエル左派は布告による統治をやめるよう提議したが、レーニンはそのような批判は「ブルジョワ的な形式主義」にすぎないと斥け、トロツキーももはや敵対する階級は存在しないのだから「紋切り型の議会機構は不要」と断言した。エスエル左派の動議は25対22で敗れた。これに対して、レーニンは「人民委員会議が、中央執行委員会で事前に議論することなく、全ロシアソビエト大会の全体的な政綱の枠内で緊急の布告を発行する権利を、ソビエト会議は拒絶することはできない」という対抗動議出し、レーニンとトロツキーも投票に参加したうえで、25対23で通過した。この単純な手続きにより、ボリシェヴィキは立法権をほしいままにし、中央執行委員会とソビエト大会を、立法機関から審議機関へと変容させた。その日遅く、人民委員会議は、布告が「臨時労農政府通報」に公表されれば即時に法としての効力をもつと表明した。以降、1918年夏に非ボリシェヴィキ政党が放逐されるまでに中央執行委員会はオウム返しに繰り返す議場となり、ボリシェヴィキの議員が人民委員会議の決定を機械的に裁可する機関となり、帝政ロシアが皇帝の勅令によって統治されたように、革命ロシアは共産党の布告によって統治されていった。ボリシェヴィキが即席で作った立法システムはその革命的修辞にもかかわらず、1905年以前のツァーリ専制的な慣行へと回帰したもので、ここに1905年以来の11年間の立憲主義の試みは終焉を迎えた。

ゲオルギー・プレハーノフは、数年前にレーニンと絶縁していたが、かつての同志が他の社会主義者を追放したことに恐怖を感じ、クーデターの翌日、公開書簡で「ボリシェヴィキの革命は最大の歴史的不幸であり、二月以降得られたすべての成果の時計の針を元に戻すだろう」と批判した。翌日、プレハーノフの自宅に兵士が突入し、銃を胸につきつけ、もし武器を持っていたら銃殺すると迫った。武器は見つからなかったため、兵士たちは帰ったが、プレハーノフは身を隠した。

革命の一週間後、ヴェーラ・ザスーリチは「わたしがそのために戦ってきたすべてのこと、わたしにとって生涯あれほど大切だったすべてのことが、粉々に砕けてしまった」と述べた。

マクシム・ゴーリキーは、彼の新聞が翌年夏に廃刊されるまで、批判した。ゴーリキーは、レーニンとトロツキーは自由と人権の意味を毫も理解していないし、「邪悪な権力の中毒」になっている、レーニンは「血も涙もない詐欺師」だと非難し、また、「自分たち自身が奴隷だった彼らは、隣人の主人になる機会をつかむやいなや、気ままな暴君になるだろう」と非難した。

エマ・ゴールドマンにレーニンは「言論の自由はブルジョワの偏見であり、労働者の共和国では言論より経済的安然の方がものをいう」と語り、ゴールドマンを呆れさせた。

非ボリシェヴィキ勢力の反撃

ケレンスキーの反撃、ユンカーの叛乱

冬宮から逃亡したケレンスキーは、軍を集めようとするが、召集できたのは、第三騎兵隊司令官ピョートル・クラスノフ麾下のコサック部隊数百人だけだった。10月28日(新暦11月10日)、クラスノフ軍はペトログラード南方45kmのガートチナを占領した。

レーニンはこれを恐れ、ペトログラード軍司令部へ行き、自ら指揮をとった。レーニンはヒューズ電信機で名前も肩書きも伝えないまま、ヘルシングフォルス・ソビエト議長のアレクサンドル・シェインマンに増援部隊を送るよう依頼し、5000人を派遣するとの回答をえた。さらにバルチック艦隊代表ニコライ・イズマイロフが戦艦共和国と二隻の駆逐艦を急派すると回答した。レーニンは増援部隊の到着に確信をもてず、ペトログラード守備隊にもケレンスキー軍への攻撃を指示した。しかし、元陸軍士官ニコライ・ポドヴォイスキーから、連隊は出兵を拒否しているとの回答しかえられなかった。レーニンは激怒したが、数人の兵士しか集められなかったため、トロツキーが労働者に武装をよびかける演説をおこなった。

10月29日、ウラジミール陸軍士官学校などのユンカー士官学校生らはニコラエフ工科大学があったミハイロフスキー城に集結し、祖国・革命救済委員会の指導の下、ケレンスキーの蜂起を支持して、市内の電話交換機、ペトロパヴロフスク要塞、 ボリシェヴィキ本部のあるスモーリヌイ聖堂を占領し、赤衛兵の武装解除を開始し、軍事革命委員の逮捕をはじめた。ユンカーは軍へ叛乱の支持を呼びかけたが、ペトログラードの革命守備隊は反乱を支持しなかった。赤衛兵は電話交換機を奪取し、要塞を包囲し、鎮圧した。メンシェヴィキの新聞によると、包囲中に約200人の士官候補生が負傷・死亡し、71人が私刑の犠牲となり、ボリシェヴィキの軍事革命委員会は46人が死亡した。ソ連の歴史学は、死者71名、負傷者130名と報告している。

10月30日(新暦11月12日)、ケレンスキー軍はペトログラード郊外25kmのプルコヴォ高地に到達したが、小規模な衝突があっただけだった。その日の夜、革命政府の元海軍士官パーヴェル・ドゥイベンコがコサックの野営地に潜入し、ドン川地方への安全な通行と平原での自治を約束するので降伏しないかと交渉、コサック兵はケレンスキーのために戦う理由はなく、降伏した。クラスノフの兵が速やかに首都に侵攻していればケレンスキーは権力を奪還できた可能性はあったが、かれらもまた、戦闘意欲がなかった。

モスクワのユンカーの抵抗

モスクワでは、赤衛兵とケレンスキー派の部隊が6日間の戦闘を行った。モスクワの士官学校生と学生からなる臨時政府支持の部隊がクレムリンを制圧し、モスクワ市長はボリシェヴィキとの交渉にはいった。

10月29日、モスクワのユンカー士官学校生の抵抗によって、赤衛兵238人が死亡し、ボリシェヴィキを支持したクレムリン衛兵第56連隊は300人以上が死亡した。ボリシェヴィキの軍事革命委員会は増援部隊を集め、10月30日の真夜中に攻撃を開始し、11月2日朝、抵抗勢力は降伏した。ケレンスキー派が降伏するまでに両陣営の戦闘員1000人が死亡、巻き込まれた市民も死亡した。

「祖国と革命救済委員会」

10月クーデターに抵抗したのは、旧秩序の崩壊に大きな貢献をしたインテリゲンツィア(知識人)だった。政府官吏、ホワイトカラー労働者、著述家、芸術家、学者、ジャーナリスト、法律家らは、ボリシェヴィキが権力を握る限りは職務を拒否すると宣言した。祖国と革命の救済委員会が生まれ、政府機関のゼネストを行い、省庁、郵便、電信業務、銀行員なども参加した。ホワイトカラー職員のストライキは翌1918年1月まで続いた。

11月10日にレーニンはストライキを行った国立銀行へ武装した衛兵隊を派遣し、500万ルーブルの国庫を押収した(#国立銀行の接収)。

続いて、11月後半にはレーニンはストライキを続ける政府役人への反撃を開始した。武装兵士が公的機関をひとつひとつ制圧していき、厳罰の脅しのもと、職務に戻ることを強制し、拒絶したものは退職させられ、下位の役人にとって替えられた。

10月29日に士官学校生らが反乱を開始した。しかし反乱はその日のうちに鎮圧された。

臨時労農政府

モスクワでは10月25日に臨時労農政府を支持する軍事革命委員会が設立され、26日に臨時政府の側に立つ社会保安委員会がつくられた。10月27日に武力衝突が起こり、当初は社会保安委員会側が優勢だったが、周辺地域から軍事革命委員会側を支持する援軍が到着して形勢が逆転した。11月2日に社会保安委員会は屈服して和平協定に応じた。軍事革命委員会は11月3日にソヴィエト権力の樹立を宣言した。

銀行の接収と企業と土地の「収用」

国立銀行の接収

10月28日(新暦11月10日)、公共機関と銀行はストライキに突入した。帝政に仕えてきた公務員全体が、ボリシェヴィキ政府への抗議を示すためゼネラル・ストライキをおこなった。省の金庫は空で、立憲民主党の公爵夫人ソフィヤ・パーニナが省の金を持ち出しており、憲法制定会議から指示があるまで払い戻しはしないとした。レーニンは公務員のストライキを「妨害行為」で「脅迫」だと非難し、公務員に復職するよう何度も命令した。

レーニンは革命後の第一日目に、ロシア国立銀行に1000万ルーブルを政府に放出するよう命じた。ボリシェヴィキは資金が必要で、支持者に給与をはらったために資金が底をつき、食料を徴発しなければ、革命政府は崩壊するおそれがあった。しかし国立銀行総裁イワン・シーポフはそれは違法だと拒否し、銀行職員もストライキに参加していた。まもなく人民委員会議は資金不足に陥る。ボリシェヴィキに国立銀行の技術的な運用手順を知るものはいなかった。

11月7日(新暦11月20日)、財務人民委員メンジンスキーは赤衛兵一分隊を率いて銀行に現れ、20分以内に金を用意しなければ、職員は職と年金を失い、軍に召集され前線に送られると通告した。しかしそれでも銀行職員は譲らなかったため、レーニンは激怒し、シーポフは監禁された。

11月10日(新暦11月23日)、副人民委員ニコライ・ゴルブノフと国立銀行人民委員ニコライ・オシンスキーは、赤衛兵に銀行を包囲させたうえで、行員に銃口をつきつけて命令し、500万ルーブルを「接収」すると称して強奪し、レーニンはこれに喜んだ。これは強盗といっていい行為であった。

農民による土地の「収用」

10月26日(新暦11月8日)の土地についての布告によって、貴族、教会、皇室の土地を農民ソビエトに引き渡した。これはエスエルの綱領を掠め取ったものであったが、この土地の分配によって、保有地は細分化され、都市向けの食料供給よりも自給自足を特権化してしまった。労働者統制令では、工業の労働者管理を樹立するもので、大企業の所有権は自治体と国に移管された。

土地に関する布告は、一時的に農民を味方につけることになったが、社会主義を標榜しながら、農村における所有の原則を認めたこの布告は矛盾する状況をうみだした。農民たちはこの布告を後ろ盾にして、土地や用具、家畜、荷車を横領した。レーニンの過渡的社会主義では農民の所有権も前提としていたが、実際に農民たちが横領を行うと、ボリシェヴィキは軍を用いて農民の行動を鎮圧した。機関紙イズベスチヤは1917年12月9日に「なにも理解していない農民たちの略奪をやめさせ、秩序を回復するために軍を派遣した」と報じている。

レーニンは、農民に取り入り、エスエルに不意打ちをくわわせようとしていたが、農民たちは翌年の憲法制定会議ではエスエルを支持し、レーニンは農民たちへの不信感を強めた。ここから「農村に対する戦い」が展開されていった。

労働者による企業の「収用」

ボリシェヴィキが、土地に関する布告に遅れて、労働者による企業管理を布告すると、労働者たちは「管理」ではなく、みずから企業の所有者になることを欲し、経営者を追放し、その財産を独断で「収用」と称して強奪した。1918年1月5日の勤労・被搾取人民の権利宣言には、労働者たちの「収用」を抑え込む意思があった。1918年6月28日に重工業の収用に関する布告がだされた時にはすでに元々の所有者は追放されていたか、逃げ出していた。

もともとレーニンは、国有化と私有財産の没収とは明瞭に異なると主張していた。革命直前に書かれた「差し迫った破局、これとどう闘うか」でレーニンは、銀行、カルテル(石油、石炭、製鉄)の国有化、工業商業総体の強制的カルテル化、生産消費の循環を統制する消費者組織の再編などを提案していたが、国有化と私有財産の没収とは明瞭に異なり、銀行にある資本の所有権は破棄されることはないと述べていた。レーニンは、国有化の利点として小経営者と農民への貸付を促進すると述べており、私有財産の廃止を提示しておらず、革命政府に資本家が協力することをのぞんでおり、社会主義への移行段階をなす「国家資本主義」の創出をめざしていた。しかし、実際に革命が現実のものになると、資本の所有権は認められないまま、多くの人々が財産を奪われていった。

他の社会主義政党の排除とエスエル左派との連立政権

ボリシェヴィキ党員によるレーニン批判

ボリシェヴィキ内部からもレーニンの行動に反撃とはいわないまでも、抵抗するものがいた。革命から一週間後、カーメネフとジノヴィエフが、メンシェヴィキと社会革命党との連立政権をレーニンに提起したが、レーニンは嘲笑した。

ソビエト大会でマルトフは、レーニンによって予告された政府がほかの社会主義政党にも開かれるべきだと要求し、ルナチャルスキーも賛同した。レーニンの独占主義的な考えに対しては、ボリシェヴィキ内部でも懐疑的な意見が多く、カーメネフ、ジノーヴィエフ、ルイコフ、シリャープニコフ、リャザーノフ、ボグダーノフ、クラーシン、ゴーリキーらは、革命政権を守るにはすべての社会主義者を参加させるべきだと考えた。鉄道員組合も連立を要求し、ただちに他党との交渉をはじめなければ鉄道をストップさせると告げた。

強引で性急なレーニンを支持したのは、トロツキー、スターリン、オルジョニキゼにとどまったため、10月29日にレーニンは形式的な譲歩を行うことにし、会議にはレーニン、トロツキー、スターリンは参加せず、カーメネフは連立に向けて議論した。連立への同意は頑迷なレーニンとトロツキーの排除を前提としており、そうでなければ他党への開放は失敗するからだった。

レーニンはこれを察し、自分の権威を高めるために、11月1日、ペトログラード委員会に「社会主義者たちと交渉するなど問題にならない。われわれのスローガンは、妥協の排除、ボリシェヴィキの単独政府の貫徹」であり、「唾棄すべきペテン師」のカーメネフらによる譲歩は一切排除すると宣言した。レーニンはフォロダルスキーを派遣し、中央執行委員会を組合と農民ソビエトと軍の代表に拡大し、政府が中央委員会に従属するという原則に同意する、と伝えさせた。これが、中央執行委員会に党の影響を強めていくためのレーニンの妥協案だった。中央執行委員会はそうしたレーニンの下心を見抜くことができず、可決した。ヴィクジェーリはボリシェヴィキの政府からの撤退を要求し、カーメネフがレーニンの辞職を提案すると、レーニンは激怒し、連立政府の交渉を中止するとしたが、反対10人、賛成3人で却下された。トロツキーは折衷案として、エスエル左派のみと交渉を続け、これ以上譲歩できないと提案し、中央委員会はこれを受け入れた。レーニンは、最終提案への10人の署名にあたって、執務室に一人づつ呼び入れて署名させた。

さらに同時に、レーニンは、「反革命的報道」の自由を制限する命令を出した。革命前、レーニンとボリシェヴィキは報道の自由を訴えていた。ボリシェヴィキのユーリ・ラリーンはこの措置への告発動議をだしたが、レーニンはラリーンを「党規律に反対する者」と反論し、2票差で否決された。

11月4日、レーニンの横暴さに嫌気がさしたカーメネフとジノヴィエフは、ミリューチン、ルイコフ、ヴィクトル・ノギーンとともに人民委員会議と党中央委員会を辞職した。レーニンはカーメネフの後任にスヴェルドローフを任命した。

その後、カーメネフとジノヴィエフは、ソビエトが管理する機関紙「イズヴェスチヤ」で、ソビエトの全政党が参加しなければ革命の成果を固めることはできないし、政治テロの手段によって運営されることになるが、それは「労働者・兵士の多数の意志に反して追求される致命的政策」であり、「無責任な体制」であり、これは革命と国家の破壊へ行き着くと警告し、中央委員会を支配するレーニンの権威主義を批判した。

レーニンは分裂を容認せず、彼らを除名し、粛清によって危機を脱出しようとした。レーニンは彼らを「裏切り者」「脱党者」と呼んだ。結局、彼らは重大な勢力ではないと判断し、そのままにしておくと、数週間後、彼らは戻ってきた。

エスエル左派との連立政府

ボリシェヴィキとともに武装蜂起に参加した社会革命党左派は、11月に党中央により除名処分を受け、左翼社会革命党として独立し、ボリシェヴィキからの入閣要請に応じた。

11月15日、エスエル左派のみを残し、残りのエスエルとメンシェヴィキを排除したうえで、数人のエスエル左派が政府に加わった。鉄道組合をなだめるためにエスエル左派で組合員のクルチンスキーに運輸人民委員のポストを用意した。しかし、レーニンにとって連立は一時的な譲歩で、その後もソヴナルコムのなかの非ボリシェヴィキをいかに排除するかを画策した。その結果、レーニンは中央委員会に農民代表、兵士代表、組合代表を受け入れつつ、委員数を108人から366人に拡大させた。この増員によって、棄権と饒舌がその特徴となり、真剣に議論できなくなり、やがて会合開催は稀になり、結果として権力の中央集中の強化となった。こうして権力はボリシェヴィキ12議席、エスエル左派7議席の中央委員会最高幹部会が掌握することになった。

エスエル左派はレーニンの政治的いかさまに気づき、憤激したが、武装蜂起を支持した自分たちも共犯者となっており、なんの反響ももたらさなかった。

ボリシェヴィキによる憲法制定議会の弾圧

二月革命以後、国家権力の形態を決めるものとして臨時政府が実施を約束していた憲法制定議会は、十月革命までついに開かれなかった。ボリシェヴィキは臨時政府に対してその開催を要求してきた。代表民主制の導入は、臨時政府の唯一の公約だったが、選挙は最初9月、その後、10月、11月と延期され、延期のたびにボリシェヴィキは政府が「民主主義を殺す」、自由議会をだまし奪おうとしていると非難した。

しかし、権力を掌握するとレーニンは自由議会を認めなかった。彼にとってプロレタリア独裁とソビエト権力が唯一の民主主義の形態だったからである。クーデターの初日、レーニンは、選挙を無期限に延期したいと考えた。「選挙は革命の首を取るかもしれない」、労働者と農民が必要なのに、候補者リストには偶然のった知識人がいるとして、立憲民主党を非合法化しなければならないと言った。しかしこれにはジェルジンスキーでさえも反対した。レーニンは制定会議がメンシェヴィキらの会議になれば、また軍事的手段をつかって勝ち取らなければならなくなると語った。結局、レーニンは選挙を認めた。ボリシェヴィキは10月27日に憲法制定議会開催についての選挙を実施することを決めた。

11月12日から14日にかけて実施された全ロシア憲法制定議会のための選挙で、社会革命党(エスエル)が約1800万票で得票率40パーセント、ボリシェヴィキ1000万で得票率は24パーセントにとどまった。さらにエスエルは、ウクライナ社会革命党500万票が加わり、得票率50パーセントとなった。メンシェヴィキは130万票、政治から排除されていたカデットは300万票を獲得した。全703議席のうち、エスエルは419議席(410議席)で第一党となり、ボリシェヴィキは168議席(175議席)にとどまり、その他、エスエル左派40議席、カデット17議席、メンシェヴィキ16議席、90議席は少数民族の党となった。


政党 票数 %
社会革命党(エス・エル) 17,943,000 40.4%
ボリシェビキ 10,661,000 24.0%
ウクライナエス・エル 3,433,000 7.7%
立憲民主党(カデット) 2,088,000 4.7%
メンシェビキ 1,144.000 2.6%
その他のロシアのリベラル政党 1,261,000 2.8%
グルジアメンシェビキ党(英語版) 662,000 1.5%
ミュサヴァト党(アゼルバイジャン) 616,000 1.4%
アルメニア革命連盟(アルメニア) 560,000 1.3%
左翼エス・エル(英語版) 451,000 1.0%
その他の社会主義政党 401,000 0.9%
アラシュ党(カザフスタン) 407,000 0.9%
その他の少数民族政党 407,000 0.9%
合計(集計された票数) 40,034,000 90%
未確認分 4,543,000 10%
合計 44,577,000 100%

選挙で敗北したレーニンは、憲法制定議会の開始を遅らせ、いかに会議を廃止するかの方法を練った。十月クーデターを正当化する論拠の一つは、ボリシェヴィキの権力掌握のみが憲法制定会議の召集を保障するというものだったが、レーニンは憲法制定会議での敗北を怖れ、憲法制定会議を無力化する方策を探った。

レーニンはまず、憲法制定議会の運営を差配する選挙委員を解任し、ボリシェヴィキのウリツキーを据える布告をだした。さらにレーニンの腹心スヴェルドローフをカーメネフの後任として中央執行委員会議長とし、中央委員会書記局長も兼ねさせた。スヴェルドローフはボリシェヴィキ議員を組織し、議会への批判に専念させるために企業に送り込んだ。ついで議会内のボリシェヴィキ会派を監督する事務局が中央委員会に設置され、ブハーリンとソコーリニコフが責任者となった。

立憲民主党の非合法化

憲法制定議会に向けた選挙結果を受け入れることができなかったレーニンは反撃し、11月28日に立憲民主党(カデット)を政府に対する陰謀を計画した「反革命党」として活動を禁止し、指導者たちを「人民の敵」として逮捕を命じた。憲法制定議会が初召集されるはずだった11月27日、レーニンは立憲民主党を非合法化する布告をだし、立憲民主党を「人民の敵」と断じ、赤衛兵が著名な立憲民主党党員を逮捕していき、逮捕者は数十人にのぼった。立憲民主党はボリシェヴィキにより弾圧された最初のリベラル政党となった。

反対派が立憲民主党の非合法化を違法な弾圧だと批判すると、レーニンは立憲民主党は内戦の参謀部を形成してるので、「合法性の問題は議論するのも無意味だ」と答え、トロツキーも「われわれは誰とも権力を分かち合うことはない。革命を流産させるわけにはいかない」と答えた。

秘密警察チェーカーの設置

レーニンは憲法制定議会を弾圧していく渦中の1917年12月7日、反革命・破壊活動・投機と闘うための全ロシア臨時委員会(チェーカー)を設置。長官フェリックス・ジェルジンスキーは残忍で裏工作の才能があり、自らテロリズム的作業に身を投じており、左派社会主義者は嫌悪していたが、レーニンはジェルジンスキーの非人間的なまでに峻厳で、チェルヌシシェフスキーの「何をなすべきか」の「新しい人」を思わせるところに魅了されていた。チェーカーは公表されずに設置され、職務は曖昧に定義されていた。チェーカーは破壊活動や反革命と投機を未然に防ぐことを職務としていたが、実際には無制限の調査と抑圧の権限を有していた。

1917年10月27日の第2回ソビエト大会では死刑を廃止したが、チェーカーは報告することもなく死刑を活用した。フランス革命時の恐怖政治で知られるフーキエ=タンヴィルのような人物を探していたレーニンは、「銃殺せずにどうやって革命できるのだ」と死刑を正当化した。レーニンは1917年12月24日から27日(新暦1918年1月6-9)に書かれた「競争をどう組織するか」でもテロルを奨励した。

人民の敵、社会主義の敵、労働者階級の敵に容赦はいらない!金持ちとその腰巾着であるブルジョア知識人に死をもたらす戦争を!ならず者、怠け者、暴徒との戦争を!(…) 金持ちと悪党は同じコインの表と裏であり、資本主義が育てた2つの主要な寄生虫のカテゴリーであり、社会主義の第一の敵である。これらの敵は、全人民の特別な監視下に置かなければならない。社会主義社会の法と規則を少しでも破った敵は、容赦なく処罰されなければならない。この点において、弱さ、ためらい、あるいは感傷的な態度を示すことは、社会主義に対する重大な犯罪となるだろう。

続けてレーニンは、金持ち、ならず者、暴徒、仕事をサボる労働者は投獄され、刑期を終えても更生するまで有害者としてみんなで監視し、あるいは、怠け者の10人に1人はその場で即座に銃殺されると主張した。

レーニンは1918年1月14日会議「飢饉との戦いについて」でも「テロリズムに頼らない限り、われわれは何も達成できない。投機家はその場で撃ち殺さなければならない。略奪者(盗人)にも断固たる対処をしなければならない。彼らはその場で銃殺されなければならない」と主張し、投機するために食料を隠したり、盗んだりする者への処刑を主張した。

チェーカーの職員は最初120人であったが、一年後には3万人と膨れ上がった。

「憲法制定議会についてのテーゼ」

ボリシェヴィキは左派エスエルと事前に相談し、憲法制定会議は召集するが、立法権を奪い、ただちに解散すると決定した。

12月1日にレーニンは憲法制定会議は人民の意志を完全に表現するものと言明していたが、12月12日に「憲法制定議会についてのテーゼ」をプラウダに発表し、「議会は、議会制的段階がすでに終わっているのだから、存在理由はない。憲法制定議会ではブルジョワ政党が選出されるなど社会の意識と異なる段階になっている。革命ロシアの後退などありえない。憲法制定議会は歴史的後退になるだろう」として憲法制定議会の存在理由を否定した。1レーニンは「すべての権力を憲法制定会議へ」というスローガンはすでに反革命的になったと主張したうえで、憲法制定会議は第二回ソビエト大会の決議とソブナルコムの布告を承認するか、それとも「ソビエト権力の側からの最も強力で、迅速で断固たる決定的な処置」に直面すると告げたが、これは議会への死刑宣告であった。レーニンは、憲法制定議会はブルジョワ共和国においては民主主義の最高形態だが、現在はそれより高度な形態であるソヴィエト共和国が実現しており、憲法制定議会に対してソヴィエト権力の承認を要求した。

一方、社会革命党は「全権力を憲法制定議会へ!」というスローガンを掲げ、対決姿勢を示した。社会主義者たちは対抗宣伝のキャンペーンをもって応じ、アジテーターを工場や兵営に送り、署名をあつめた。エスエルとメンシェヴィキは自分たちに大規模な支持があることを誇示すれば、ボリシェヴィキによる武力行使を阻止できるかもしれないと期待し、エスエルの一部の集団は、1月5日に武装デモを行おうとしたが、エスエル中央委員会は危険な冒険だとして拒絶した。

すでにレーニンは7月末の「立憲制の幻想について」で、革命期には多数派の意思は重要ではない、「重要なのはよりよく組織された少数派である。それはより意識的で、よりよく武装され、その意思を多数派に押し付け、打ち負かす術を心得ている」と述べていた。

レーニンは、12月12日から数日後、アフクセンチエフらエスエル右派、ヴィクトル・チェルノフ、ツエレツエーリの逮捕命令をだした。憲法制定議会は翌1918年1月5日に開催予定だったが、党に戻ってきてレーニンに服従していたジノーヴィエフ、カーメネフたちに、議会の存続は議会の従順さにかかっているとレーニンは警告した。議会は政府の正統性をみとめ、政府が議会に付議するものを可決しなければならないと告げた。

このようななか、1918年1月1日、レーニンは銃撃されたが、これはレーニンにとって宣戦布告を意味した。

戒厳令下の憲法制定議会の解散

憲法制定議会開催の二日前、レーニンはあらかじめ「勤労・被搾取人民の権利宣言」を中央執行委員会に承認させた。この綱領には「憲法制定会議は、政府の計画を採択しなければ解散される」と明記されていたが、これはあきらかに恐喝だったと歴史学者カレール・ダンコースは指摘する。この権利宣言はのちの1月25日に全ロシア・ソビエト会議で採択された。

レーニンは議会の解散を決意し、議会を支援する民衆運動を阻止するために警察的措置の強化を指示した。

1918年1月4日、レーニンは十月クーデタを遂行したボリシェヴィキ軍事組織の議長ポドヴォイスキーを緊急軍事部長に任命し、戒厳令を発布し、集会を禁止した。ペトログラードチェーカー長官ウリツキーは戒厳令に基づき、会場のタヴリーダ宮を水兵に包囲させ、そこにいた官吏に対して、ウリツキー指揮下にある宮殿守備隊司令官のみに従うよう指令した。こうして、議会開会までに憲法制定会議を無力化するための態勢が完全に整えられた。その夜、宮殿守備隊と議員が衝突しないためにデモ隊が宮殿に陣取ろうとしていたが、夜明け前に銃撃があり、犠牲者数名が出た。

1月5日、戒厳令によって市内に兵士と赤衛兵が投入され、厳重警戒態勢のなか憲法制定議会が召集された。ボリシェヴィキ機関紙「プラウダ」はタヴリーダ宮殿近くでの集会は力によって解散されると警告し、1月5日には「資本のハイエナとその雇われ人どもは、ソビエトの手から権力を奪おうと望んでいる」と見出しをつけ、憲法制定会議の開催を要求する勢力を「資本のハイエナとその雇われ人ども」であり、彼らはソビエトの手から権力を奪取することを望んでいる反革命勢力であると報じた。

デモは禁止されていたが、1月5日午前10時、憲法制定会議を支持する4万人の労働者、学生、公務員がマルス広場からタヴリーダ宮殿まで非武装のデモ行進した。デモ隊がリチェイヌイ大通りまで来た時、赤衛兵が発砲し、参加者は散り散りになった。「すべての権力を制憲会議へ!」と書かれた二つの旗は踏みつけられ、少なくとも10人が死亡、70人が重傷をおった。

レーニンは1月5日午後1時、宮殿に到着したが、顔は青ざめていた。入場する非レーニン派の議員に対して、警備する水兵らは罵ったり、拳をあげてインターナショナルを歌うなどして威嚇した。周囲は混乱しているとして、開会を正午から4時に延期すると述べた。

1月5日午後4時、議事が開始されたが、ホール内では武装衛兵が監視し、数人の議員も武器をもっていた。ボリシェヴィキ議員と武装衛兵は野次り、嘲り、銃を向け、水兵らは宮殿のビュッフェから施与されたウォッカで酔っていた。会議では、スヴェルドローフが前日レーニンが書いた宣言をよみあげた。議長選挙では非ボリシェヴィキで社会革命党のヴィクトル・チェルノフが就任したが、宮殿の外では守備隊がデモ隊に殴打したり、発砲するような緊迫した状況のなか、共同で仕事をしようというのんきな発言をした。チェルノフが10月革命を演説で批判すると、ボリシェヴィキは野次り、あざけった。レーニン派が叫び声や罵詈雑言をなげつけるなか、チェルノフはボリシェヴィキが民主主義を脅かしていることを直接告発しなかった。

ボリシェヴィキは憲法制定会議に立法権を放棄させ、ボリシェヴィキの布告を承認することを求める動議を出した。スヴェルドロフが「労働者の権利に関する布告」「銀行国有化に関する布告」「寄生虫階級を絶滅する」ための「強制労働に関する布告」などの布告を審議なしで承認するという動議を出した。しかし、動議は大差で否決され、ボリシェヴィキは退出した。

休会中、レーニンは宮殿を閉鎖し、翌日は誰も入れてはいけないと命じ、制憲会議の解散命令を出した。

1月5日午後11時半、会議が再開された。ボリシェヴィキの水兵がにやにや笑いながら、メンシェヴィキのツェレテリや社会革命党チェルノフに銃を向けた。しかし、ボリシェヴィキの威嚇に屈することなく、ツエレツエーリは野次のとびかうなか、ボリシェヴィキの暴力を告発した。これにより、エスエル、メンシェビキ、カデット陣営は再び勢いをえて、「勤労・被搾取人民の権利宣言」を237票で否決した。議会も議会外の大衆も、あきらかにボリシェヴィキに敵対していたが、ボリシェヴィキは政府、軍など権力機関を掌握していた。レーニンは議会は無意味であるとして審議開始直後に退出し、ボリシェヴィキもエスエル左派も退出した。ウリツキーが議会内に配備した警備隊と傍聴人の圧力をうけながらも、チェルノフは、土地の国有化、ロシア民主主義連邦共和国の設立、連合国との全面講和を採択させた。警備隊は会議中止を叫び、電気を消したり、退去させるぞと脅した。

1月6日午前4時頃、赤衛兵指揮官アナトリー・ジェレズニャコフは、壇上のチェルノフに「衛兵が疲れている」と退場を促した。チェルノフは拒否したが、酔った衛兵たちは武器をいじりはじめ、電灯を一個ずつ消していった。1月6日午前4時40分、全議員が退出した。衛兵の疲労を理由に1月6日午後5時まで休会とした。

会議は数時間後に再開すると取り決められていたので、1月6日午後、議員たちが宮殿に戻ってきた。しかし、道はボリシェヴィキの兵士によって遮断され、兵士たちが議員の入場を禁止し、「憲法制定会議の解散を命じる布告」が宮殿に貼られていた。憲法制定議会の審議を報告していた新聞社はおさえられ、新聞は破棄された。その日、プラウダは「銀行家、資本家、地主のお雇い、アメリカドルの奴隷、卑劣な中傷者である右派エスエルは、憲法制定会議で、全権力を人民の敵に渡すよう求めた」とし、「労働者、農民、兵士は、社会主義の最悪の敵の嘘のえさに騙されることはないであろう。社会主義革命と社会主義ソヴィエト共和国の名において、彼らは、その公然かつ隠然たつ殺害者どもを一掃するであろう」と報じた。こうしてレーニンは武力を用いて憲法制定会議を破壊した。

その晩、レーニンは、憲法制定議会は資本主義とブルジョワの機関、かつ死に絶えた過去の遺物であり、「憲法制定議会万歳」というスローガンは「ソビエト政権打倒」を意味するとし、革命の未来と人民の意思は憲法制定議会の解散にかかっていると中央委員会執行部につたえた。レーニンは「会議の解散は、革命的独裁の名において、因習的な民主主義を完全かつ公然と解体することを意味する。それはいい教訓となった。(…)我々は人民の意思を実行した」と正当化した。レーニンはトロツキーに「憲法制定議会の解散は、民主主義の観念が清算され、独裁の観念に席を譲ることを意味する」と語った。

こうして憲法制定議会は社会革命党が主導し、ボリシェヴィキが提出した決議案を否決したが、翌日、ボリシェヴィキは憲法制定議会を強制的に解散させたのであった。ロシア初の自由選挙で選ばれた議会だった憲法制定会議は、わずか12時間しかもたなった。ボリシェヴィキは、ボリシェヴィキそのものが「人民」なのだから、ボリシェヴィキは「人民の声」をきく必要はないと宣言し、レーニンは憲法制定会議の解散は「革命独裁の名のもとでの形式民主主義の完全かつ率直な清算」であるとして正当化した。

シンガリョフとココシュキン暗殺

1月6日朝には暗殺事件も発生している。ボリシェヴィキの水兵がマリインスキー病院に押し入り、眠っている立憲民主党党員のアンドレイ・シンガリョフと、ペトログラード大学憲法学教授フュードル・ココシュキンを絞殺した。

左翼社会革命党員で法務人民委員イサアク・シュテインベルクは捜査をすすめたが、海軍人民委員ドゥイベンコは「しかし、これは政治的テロルだ」と述べ、シュテインベルクはボリシェヴィキの用語での「政治的テロル」は犯罪を正当化する言い回しであることに気づいた。シュテインベルクはレーニンに捜査続行を主張し、逮捕しなければ、暴力を制御し、血への飢えを鎮めることが難しくなると訴えた。しかし、レーニンは「人民がそうした問題に関心があるとは思わない。どの労働者も農民もシンガリョフなんて聞いたことがない」と答えるにとどまり、結局犯人は逮捕されなかった。こうした弾圧は行き過ぎだという批判に対してレーニンは「いくらでも叫ぶがよい。彼らができるのはそれだけだ」と嘲笑った。

第3回ソビエト大会がひらかれる予定の1月9日の前日、市民は犠牲者の追悼、ゴーリキーも新聞で哀悼の意を評し、死に瀕していたプレハーノフも「民衆の意に反して権力にとどまるために恐怖政治にたよらざるをえなくなった」とレーニンを批判した。大会は19日に延期された。

非ボリシェヴィキ勢力の動向

憲法制定会議の解散は、政府職員とホワイトカラーのボイコットの挫折をもたらし、彼らは次々に仕事に戻っていった。

ボリシェヴィキ以外の社会主義知識人は、ボリシェヴィキを簒奪者と非難はしたものの、反革命をおそれており、ボリシェヴィキと目的を同じにしていたため、いまだボリシェヴィキを同志として扱い、憲法制定会議の解散の際、兵士の一団が武力で会議を再興しようと提案したが拒絶した。彼らはボリシェヴィキと戦うことよりも、憲法制定会議の死を選んだ。メンシェヴィキは、ここでボリシェヴィキのクーデタを打破すれば、ロシア革命のあらゆる成果を一掃することになるとし、なにもしないことを正当化した。ボリシェヴィキのライバルは、住民の4分の3に支持されていたが、指導者を欠き、決起して戦おうとしなかった。

こうした非ボリシェヴィキ勢力の対応の結果、ボリシェヴィキは挑戦を受けたときは常に暴力に訴え、問題をおこした人を肉体的に一掃することによって解決することが習慣となり、ボリシェヴィキの抑制を欠いた残忍さは、彼らが残忍な態度をとっても罰せられることがないという1918年1月5日の憲法制定会議の解散に得られた認識に由来するところが大きく、以降、1918年春までには彼らは一層暴力に頼っていったとパイプスは指摘する。パイプスは、ボリシェヴィキによる憲法制定会議の解散は、「蛮行と国民の意思を露骨に無視することが、あたかも新しい専制を正当化したかのごとくであった」として、「十月のクーデターは詐欺行為のもとに遂行された」と評する。

カレール・ダンコースも、レーニンが武力で勝利したのは、彼の敵対者である非ボリシェヴィキの社会主義者たちが手段をもたず、公然と民衆の支持に訴えようとしなかったからでもあり、気力の薄弱さの結果でもあったと指摘する。

第3回全ロシア労働者・兵士・農民代表ソビエト会議:「ロシア・ソビエト共和国労農政府」樹立

1918年1月10日-18日(新暦23-31日)、第3回全ロシア・ソビエト会議(全ロシア労働者・兵士代表ソビエト会議)が開催された。この第3回労働者兵士ソビエト大会では、2000人近くの参加者がいたが、代表の選択はボリシェヴィキによって細心に管理されており、レーニン、スヴェルドロフ、トロツキーの演説には聴衆は感嘆を込めてききいる一方、マルトフが現在テロリズムに陥りつつあるという演説に対しては会場は無関心だった。この大会ではボリシェヴィキと左派エスエルで94%の議席を保持した。

社会革命党(エスエル)は、農民会議を労働者兵士会議から分離することを望んでいたが、全ロシア中央執行委員会議長であるボリシェヴィキのヤコフ・スヴェルドロフは、農民会議を第三回全ロシア労働者兵士代表ソビエト会議へと統合する動議を提出した。SRとメンシェヴィキは反対したが、この動議はボリシェヴィキとエスエル左派によって可決され、農民会議は消滅した。会議名も、「全ロシア労働者・兵士代表ソビエト会議」から、「全ロシア労働者・兵士・農民代表ソビエト会議」へと変更された。

全面的にボリシェヴィキに支配されていたこの大会では、ボリシェヴィキの布告と決議をすべて承認し、新政府から「臨時」をはずし、政府としての地位を確立すると宣言した。また、新たな中央執行委員会を選出し、ソブナルコムの名称に付されていた「臨時」もはずし、また憲法制定議会にはいかなる準拠もしないと決定し、レーニンの勝利が仕上げられた。

1月18日(31日)、土地の私的所有を廃止する(土地の社会化に関する布告)、憲法制定議会の解散が宣告され、ソビエト政府の新名称を「ロシア・ソビエト共和国の労働者と農民の政府」とすることを承認した。民族問題担当人民委員スターリンがロシア諸民族(人民)の自発的な(自由な)連合を基礎として、ロシア社会主義共和国をソビエト共和国の連邦として構成すると報告した。こうしてロシア・ソビエト連邦社会主義共和国が建国された。憲法制定議会の解散の宣告にともない、1月5日の憲法制定議会でチェルノフが提案した「ロシア民主主義連邦共和国」の建国宣言も取り消された。

また、この会議では「勤労し搾取されている人民の権利宣言」を採択し、人間による人間の搾取の廃止、階級の廃絶、搾取者に対する容赦のない抑圧が宣言された。

ブレスト=リトフスク条約

全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案した10月26日の平和に関する布告は、フランスやイギリスなどの同盟諸国から無視されたため、ソヴィエト政府はドイツやオーストリア・ハンガリーとの単独講和へ向けてブレスト=リトフスクで交渉を開始した。交渉は外務人民委員となっていたトロツキーが担当した。この交渉に関してボリシェヴィキの内部に三つのグループが形成された。講和に反対し、革命戦争によってロシア革命をヨーロッパへ波及させようとするブハーリンのグループ(共産党左派)、ただちにドイツ側の条件を受け入れて「息継ぎ」の時間を得ようとするレーニンのグループ、そしてドイツでの革命勃発に期待しつつ交渉を引き延ばそうとするトロツキーのグループである。

ドイツはソヴィエト政府の提案を受け入れ、11月19日に交渉の席についた。最初の段階ではトロツキーの中間的な見解が支持を得たため、ソヴィエト政府はドイツ側が1月27日に突きつけた最後通牒を拒否した。ドイツは、ソビエトが他国の革命を待望して時間稼ぎをしていることがわかると、1918年2月8日にウクライナと個別の講和条約をむすんだ。トロツキーは激怒して席を立ったが、ドイツは彼のはったりを見抜いて攻撃を再開した。

1918年2月23日、党中央委員会でレーニンはドイツの最後通告を即時受諾することを提案したが、ブハーリン、ウリツキー、ロモフ、ブブノフら共産党左派らは異議をとなえた。共産党左派はモスクワ地方ビューローにおいて、講和締結後は外形だけのものになるソビエト権力を放棄する場合もあることを認めることが国際革命のためになると決議した。レーニンらは、これは党と国家を撹乱し、党を分裂させる方針であると批判した。

ドイツ軍の攻撃でロシア軍が潰走すると、ボリシェヴィキの中でようやくレーニンの見解が多数派を占めた。1918年3月3日、ソヴィエト政府は当初よりさらに厳しい条件での講和条約ブレスト=リトフスク条約に調印した。左翼社会革命党は講和条約に反対し、ボリシェヴィキとの連立政府から脱退した。エスエル左派は、ブハーリンら共産党左派との会談において、レーニンを人民委員会議議長から更迭し、エスエル左派と共産党左派からなる新しい政府を樹立することを提案したが、ブハーリンは提案を受け入れなかった。レーニンは共産党左派をドイツ帝国主義とロシアのブルジョワとの共謀者だと批判した。

このブレスト=リトフスク条約によって、ロシアはフィンランドエストニア、ラトビア、リトアニアポーランドウクライナ、さらにカフカスのいくつかの地域を失い、巨額の賠償金を課せられることとなった。のちに、同年11月にドイツ革命が起き、ドイツが敗北するとボリシェヴィキはこの条約を破棄したが、ウクライナを除く上記の割譲地域は取り戻せず、独立を認めることとなった。戦争を離脱して革命を拡大させようとして時間稼ぎをしたロシアは、フィンランド、バルト諸国、ポーランド、ウクライナの独立という代償をはらうことになった。1917年12月6日にフィンランドは独立し、1918年1月にフィンランド社会主義労働者共和国が成立するも、フィンランド内戦で白軍に敗北した。ウクライナはソビエト・ウクライナ戦争で敗北し、ソ連の一部となった。同1918年2月16日にリトアニアは独立、2月24日にエストニアも独立、11月18日にはラトビアも独立した。

ロシア共産党への改称

ドイツとの講和締結から三日後の1918年3月6日から8日まで開かれた第7回臨時党大会でレーニンは、「共産」党は唯一の正しい名称であるとし、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)と改名した。また、レーニンは、「ボリシェヴィキ革命はこの地上の最初の一億人を、帝国主義戦争から、帝国主義世界から救い出した」という。

この第7回臨時党大会では、クイプィシェフ、コシオル、ヤロスラフスキー「共産党左派」とトロツキーを、党の統一を破り、「プロレタリア独裁を破壊しようとした党撹乱者」であるとし、これを粉砕したと公式のソ連共産党史には書かれている。

内戦・農村での戦争・民族独立

ロシアにおける第一次世界大戦の講和は、内戦、外国の干渉、民族独立という三つの戦争によって特徴づけられる新たな時代の幕開けとなった。

レーニンは平和と土地とパンを約束していたが、1918年以降のロシアの社会状況は、世界大戦時よりも悪化し、大災厄に立ち至った。ブレスト=リトフスク条約によってウクライナを失い、ドン・コサックはやがてボリシェヴィキに反乱した。ボリシェヴィキは、制圧した地域では恐怖政治をしき、徴発、逮捕、銃殺の限りをつくした。

戦時中から食糧や物資が不足し、各地で危機的な状況になっていた。十月革命が発生した理由もそうした食糧危機にあった。ボリシェヴィキの恐怖政治によっても飢えは解決されず。混沌とした状況のなかで鉄道網も一部破壊され、1913年に18000台あった蒸気機関車は、1918年には7000-8000台となり、輸送能力は三分の一になっていた。運搬されなかった生産物は倉庫で腐り、運搬されたとしても運送速度が遅く、生産物は使い物にならなかった。また列車は略奪も受けた。

ボリシェビキがすすめた農村における階級間戦争によって、農民は絶望し、都市は飢えた。資源や原料が調達できず、おおくの工場が閉鎖し、失業者はふえ、物価は急激に上昇した。障害をかかえたり、重傷者となった帰還兵150万と捕虜300万が都市にきたが、仕事も食料もなく、1918年春の首都の失業率は70%となった。

民族の離脱

ロシアの混沌には、民族の離脱もあった。革命においてレーニンは帝国内の民族へも対処し、「ロシアの諸民族の権利宣言」では、民族の平等と主権、自決権、分離と独立国家の創設、民族の自由な発展を約束した。しかし、これはやがてすさまじい武力闘争をもたらすことになった。

ドイツは単独講和でロシアからウクライナを離し、パヴロ・スコロパツキー将軍を支持し、反ボリシェヴィキの基地とした。

中央アジアでも1917年に反ボリシェヴィキのコーカンド自治政府(コーカンド共和国)が独立した(1918年2月に崩壊)。フェルガーナでは農民ゲリラのバスマチ(乞食)運動が数年続き、赤軍に鎮圧された。また農民パルチザンの緑軍も活動した。

「旧世界の完全かつ最終的な破壊」

1918年正月午後、レーニンが車に乗っていることは極秘だったにもかかわらず、銃撃をうけた。

レーニンは「何世紀にもわたる不公平」への報復、「搾取者への革命的裁き」として暴力を奨励した。レーニンによるテロルはチェカーが一手に握る以前からはじまっていた。レーニンは次のように宣言した。

より低い階級を抑圧し、搾取するためにブルジョワジーによって考案された倫理観と『人間性』の旧制度は、我々にとって存在しないし、できないのだ。
我々の倫理観は新しく、我々の人間性は絶対的である。
我々には、すべてが許されている。なぜなら、我々は世界で初めて、だれかを隷属化ないし抑圧するためではなく、万人をくびきから解放するために剣をとるからである。
血を流そうではないか。もしそれのみが海賊的旧世界の灰・白・黒の旗を深紅に変えることができるなら。
旧世界の完全かつ最終的な破壊のみが、古い卑劣感の復活から我々を救う。 — ウラジーミル・イリイチ・レーニン

1917年12月なかば、レーニンは、食料と富をためこんだ金持ちと怠け者と寄生虫に対する撲滅戦争をよびかけた。レーニンは、「実践のみが闘争の最善の方法を考案できる」とし、「ロシアの大地からすべての害虫、ろくでなしのノミ、ナンキンムシを除去しなければならない」と指令を出し、金持ち、仕事を怠ける労働者を投獄し、みせしめのために怠け者10人のうち1人を銃殺し、刑期をつとめた者には識別できるように黄色のチケットをわたした。「ブルジョワ」から奪った財産をプロレタリアに渡し、元ブルジョワを彼ら自身の食い扶持のために働かせるとエカチェリンブルクのボリシェヴィキ党員は煽り、帝政時代に資産を築いた「ブルジョワ」「金もち」は「旧人間」という烙印を押された。「旧人間」には、食料配給も少なく、パンの行列の最後尾に並ばされ、貴族の子孫のなかには餓死するのもいた。金持ちの住居は略奪され、彼らは街頭で襲撃され、日常的に暴行をうけた。

レーニンは一般犯罪に対して「人民法廷」を設置し、これは即興の裁判で、そこでは読み書きのできない12人の「選挙された」判事が、「革命的良心」を用いて裁かれた。訴訟は証拠主義ではなく、その進行具合に応じてでっちあげられ、判決は、自由に発言する群衆の雰囲気に迎合した。国家犯罪に対しては「革命法廷」を設置したが、これはやがて消え、公開裁判は、チェカーが操る党員の三人体制(トロイカ)による非公開の10分の事情聴取にかわった。レーニンは、これらの制度は搾取された階級のためのものゆえに、実際的かつ道徳的に優れていると正当化した。

干渉戦争と内戦

チェコスロバキア軍団の反乱・シベリア出兵

1918年5月、捕虜としてシベリアにとどめおかれていたチェコスロバキア軍団がシベリア鉄道で本国へ送還中反乱を起こした。

経緯は次のようなものだった。5-6万の捕虜であったチェコスロバキア軍団は反ドイツで反ハンガリーで社会主義であり、その時までチェコスロバキア軍団はロシア革命に共感していた。しかし、1918年5月14日、チェリャビンスク駅に到着したチェコスロバキア軍団が、オーストリア=ハンガリー軍の捕虜と口論の末、ハンガリー人を一人殺害した。ソビエトはチェコスロバキア人を逮捕したが、チェコスロバキア軍団の仲間が兵器庫を占拠して犯人の釈放を要求した。当時ソビエト・ロシアの陸海軍人民委員(軍部大臣に相当)に就任したばかりで権威を示そうとしたトロツキーはチェコスロバキア軍団に武器の引き渡しと撤退の中止を命じ、赤軍に入るか「労働大衆」のどちらかを選べ、さもないと強制収容所に入れるという最後通牒を発した。チェコスロバキア軍団はボリシェヴィキはドイツの圧力下で行動していると確信し、これを拒否し、フランスへ撤退できるようシベリア横断鉄道を支配した。

5月から6月にかけてチェコスロバキア軍団は鉄道沿いの都市を占領していった。東部で反乱したチェコスロバキア兵はウラル地方のクルガン、ノヴォニコライエフスク、オムスク、サマーラを奪取し、ヴォルガの農民兵と合流した。中流ヴォルガ沿いの都市でチェコスロバキア軍団がボリシェヴィキを駆逐すると、ここを拠点としていたエスエルがサマラで、憲法制定会議委員会(コムーチェ)を結成し、ロシア唯一の政府を宣言した。5万人のチェコ部隊はフランス軍将校に指揮されていた。

チェコスロバキア軍団の反乱に先立つ1918年1月に英仏は日米にシベリア出兵を要請していた。1918年3月以来、フランス・イギリス軍はムルマンスクに上陸、ついでアルハンゲリスク、夏にはウラジオストクに上陸した。

チェコスロバキア軍団の反乱が起こると7月にアメリカもチェコ軍救出として日本に共同出兵を提案、日本は8月2日に出兵を宣言した。アメリカ軍は7000、イギリス・フランス連合軍は5800、日本軍は協定を上回る7万2000の軍隊を派遣した。

日本軍はホルバート、グリゴリー・セミョーノフらの反革命軍を援助し、東部シベリアを日本の勢力範囲にしようと企て、また西シベリアのオムスクに成立したアレクサンドル・コルチャーク政権を支持した。セミョーノフはザバイカル共和国を建国した。

その後、1919年末にコルチャーク政権も崩壊し、ソビエト政府は1920年初めまでに反革命軍の鎮圧に成功した。アメリカは1920年1月に、英仏軍は同年6月までに退去した。

しかし、日本は朝鮮・満州(中国東北)への革命波及の防止とシベリア居留民の保護として東部シベリアの出兵を継続し、沿海州のソビエト軍を武装解除して各都市を占領した。1920年2月から5月の尼港事件で赤軍パルチザンは日本の軍人・民間人731人を含む4000人の住民を虐殺した。日本はアムール州からの撤兵を中止、この事件が解決するまで北樺太を保障占領すると声明した。1922年のワシントン会議を経て、日本は1922年10月に撤兵した。日本は戦費約10億円を費やし、死者は3500人の死傷者を出した。

白軍

ボリシェビキの招集を拒否した軍の将校らは自前の軍事組織をつくっていく。50万の旧軍の残存兵は政治的に敵対する白軍を結成した。

イギリス軍は白海沿岸の都市を占領した。サマーラでは社会革命党の憲法制定議会議員が独自の政府、憲法制定議会議員委員会(Комуч、コムーチ)をつくり、さらに旧軍の将校が各地で軍事行動を開始した。こうした反革命軍は、総称して

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